約 270,587 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/52.html
目次 1.正義の教えは両刃の剣 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 3.イエスの時代は「愛の時代」であった 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝」を排斥した 8.あの世から見れば邪宗はすぐ分かる 9.神仏は崇るか 10.天変地異は地球の生命体の自浄作用 11.アトランティス大陸沈没の真相 12.本当の裁きの神とは個々人の内部神性 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ 1.正義の教えは両刃の剣 今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。 まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。 ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。 いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。 悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。 谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。 ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。 それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。 3.イエスの時代は「愛の時代」であった イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。 あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。 同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。 出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。 たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。 あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。 あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。 こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。 だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。 やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。 そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。 そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。 あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。 とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。 皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。 ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。 こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。 だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。 その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。 別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。 ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。 そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。 8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。 私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。 だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。 だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。 一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。 こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。 ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。 ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。 9.神仏は崇(たた)るか あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。 崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。 だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。 ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。 動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。 で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。 ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。 ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。 そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。 ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。 10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用 あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。 皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。 そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。 11.アトランティス大陸沈没の真相 アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。 こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。 けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。 12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性 ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。 これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。 そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。 また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。 だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。 であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。 そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。 だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。 自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/51.html
目次 1.私の住む「愛と慈悲の世界」は、五月の若葉緑の世界 2.ここ九次元世界では超高層ビルの最上限にいる気分 3.地上の世界を一望する 4.高次元の霊は、地上人の心が手にとるように分かる 5.高次元世界は波動の世界 6.三千二百年前、地上のモーゼを指導した私 7.逆に今回、地上の高橋信次の指導霊はモーゼだった 8.九次元の世界はスイスの別荘地のようだ 9.地上にいる妻や娘への心配 10.テレビ局のような私の住まい 11.モーゼ、イエス、ブッダの住居 12.パルテノン神殿に住むゼウス 13.中国様式の王宮に住む孔子 14.個性の差はあれ愛と慈悲は九次元人の専売特許 15.地上の人たちよ、愛と慈悲の世界を目指せ 1.私の住む「愛と慈悲の世界」は、五月の若葉緑の世界 今日は第3章「愛と慈悲の世界」についてお話をしたいと思います。この霊示をしている時、地上は今、一月です。正月休みが終って、地方に行った方はUターンし、また東京にいる人も、お屠蘇(とそ)気分も抜けて、ふたたびせわしく働き始めている頃です。まあ、こういう寒い、厳しい一月ですけれども、こういう時には、どちらかというと人びとは、愛とか慈悲とかいう言葉を忘れがちです。 けれども、私たちがいるこの高次元の世界っていうのは、いつも春か夏のようにポカポカです。あったかいんですね。愛と慈悲って何かということがわかんなくても、愛と慈悲っていうのは、この世界を見ればわかりますよって、言えます。まわりがポカポカしてて非常に気持ちいいんです。 まあ春から夏、ただ灼熱(しゃくねつ)の夏といえば、ちょっと地獄に近いけれど。そこまで行きません。私がいるようなところというのは、たいていそう、五月ですね。地上でいうと若葉緑の頃、いちばんさわやかな頃ですね。ああいう惑じなんです。そういう世界に住んでいます。 まあ同じ春でも、もうちょっと早春の方が好きだといって、桜の花が咲くような気候、こういう気候を好きな人もおります。そういう人は、そういうところに住んでいますけれども、私が住んでいるところはちょうど若葉緑の世界、こういうところです。 皆さんは、私がどういう世界にいるかっていうことが、よく分からないでしょうから、地上の皆さんに分かるように、ちょっと今日は特別サービスをして、私の日常生活を踏まえて、愛と慈悲へと話を進めていきたいと思います。 2.ここ九次元世界では超高層ビルの最上限にいる気分 そういうことで、私もこちらへ来て十年になります。さあ地上の人たちは、高橋信次は十年経ったらどうしているかな、お墓の中に入っているのかな、あるいは、どこかのお寺のあたりでうろうろしているのかな、それとも川か何かの中で藻屑(もくず)となって流れているのかな、どういうふうになっているのかな、とみんな想像しているでしょう。生前あれだけ講演会でしゃべりまくっていた男が、何もしゃべらなくなるとは、本当に死んだら、何もかもなくなっちゃうのかなあ。まあ、こういうふうに思う人も数多いかと思います。 しかし皆さん、どうか安心して下さい。私は地上でしゃべってはおりませんが、あの世でしゃべりまくっております。「元気ハツラツ、オロナミンC」でやりまくっているわけなのです。 それではどういうところにおるかと言えばね、先般、谷口雅春先生という生長の家の総裁をしていた方が亡くなって、その後一直線に如来界最上段階に還ってきたなんて、霊言集の中で聞こえのいいことを言っていましたから、私も負けているわけにはいかんのです。ちょっとは、いいことを言っておきましょう。 死んでまもなく私は、幽界を過ぎ、霊界を過ぎ、神界を過ぎ、菩薩界を過ぎ、如来界を過ぎ、如来界最上段階を通り過ぎて、宇宙界という九次元世界へと、まっしぐらに還ってきました。 また後ほど、神理問答集とか、そういうところでも話が出ておりますけれども、この世界というのは、本当に素晴らしい世界です。 ここは、とても眺望がいいんです。地上の皆さんは登山が趣味の人と、そうでない人とがいらっしやるけれども、まあ、どこでもいい、高尾山でもいいし、富士山でもいい。きれいな山に登って下界を眺めて見ると、非常にすがすがしい気分になります。清々(せいせい)した気分になりますね。そうして地上の人間たちの心の中のゴミゴミした生活、こうしたものを見ると非常に憐(あわ)れに見えます。同じ地上の人間であっても高い山に登って、きれいな空気と、素晴らしい香り、あるいは景色、こういうものに恵まれて、下界を眺めると自分が一段偉くなったような、そういう素晴らしい気持ちになりますけれども、これはちょうど私たちも一緒です。そういうふうな九次元世界っていうところに還ってくると、非常に世界がうまく見渡せるのです。 山の上に立っているのではないんですけれども、ちょうど新宿にある、住友生命か何かの超高層ビルに上っていくような感じで、エレベーターで、スーツと上がっていくのですね。そして一番上のところに着いて、窓から見ると、新宿、そして東京全体が、一望のもとに見えるのです。 同じように、私たちの世界にいると、いろいろな世界が一望のもとに見えます。ちょうどまあ高層ビルの上と一緒なんですね。それで下を見ているのと一緒です。 ですから地上の世界もよーく分かるし、地上の人たちっていうのはちょうど、住友生命ビルの一番上の展望室から地面、地べたと言ってもいいでしょう、地べたを歩いている人たちを見ているのと一緒なんですよ。 3.地上の世界を一望する ところが、そのいわゆる地べたを歩いている人たちというのは、私がね、その高層ビルの上で見ているっていうことを知らないんです。交差点か何か一生懸命歩いちゃって、歩道橋なんて渡っちゃって、トコトコ歩いているのですよ。「さあ今日は寒いから何にしようかな。やっぱりスキヤキにしようか」なんて思っているんです。「スキヤキにすると、やっぱりネギがいるかな。まあお肉は安いのがあったからいいけど、東京ネギはちょっとデカ過ぎるかな」とかね、いろんなことを考えているのですよ。「やっぱり、しらたきもいるかなあ」とかね。「お餅(もち)入れるのは私好きじゃないんだけれども、うちの主人が関西出身でね。ああいう四角い餅なんか放り込むんだから、四角い餅も買わなきゃいけないかなあ」とか、こんなことを考えます。 まあ、東京では丸餅を入れます。本当はね、なぜ丸い餅を入れるかというと、丸い餅っていうのは円満、夫婦円満、家庭円満、これを象徴しているから丸い餅を入れなくてはいけない。そういうことで四角い餅でも、こんがり焼いてまあるくしてから放り込むのが本当の餅の食べ方です。これはお雑煮(ぞうに)の話ですから、ちょっと話がずれました。 そういうことで「今日はスキヤキにしようかな」って、考えながら道を歩いている人たち、あるいは彼女を一時間待ったけれどとうとう来てくれない。シュンとしている男性ね、いますよ。木枯らし吹いちゃって寒いところで、マフラー首にまいちゃって、彼女はとうとう来なかった。「やっぱり僕たちは、もうダメなんだろうか。神様、仏様、高橋信次様、私たちの愛はもうダメなんでしょうか。私は不滅の愛というものを信じていたのに、もうダメなんでしょうか。神様がおられなければ仏様。仏様がおられなければ高橋信次様。どうか私を救って下さい」なんてね。GLA誌パタパタしたってダメなんです。 そんなことをしても私は上から笑っているだけで、どうしようもないんです。エレベーターを降りていっていたら、彼どんどん先へ行っちゃうから、降りてるひまがないんです。そういうことで、いろいろ見ています。 あるいはね、鳩か何かがちょろちょろと飛んできてね、道端に止まっている。で餌(えさ)か何かを啄(ついば)もうとしていると、人間の変なのが出てきてポンと蹴飛(けと)ばそうとするからあわてて、飛び去ったりしてね。「ああ心臓に悪かった」なんて、鳩が心臓を押さえて飛んでいっている姿、こんなのをよく見ているのです。 4.高次元の霊は、地上人の心が手にとるように分かる こういうふうにたとえて言っているんだけれども、あなた方ごぞんじのように高層ビルから見ると、地上が、そういうふうに見える。それだけではなくて私たちの世界にいると、こういう下界にいる人たちの考えていること、心の中で思っていることが、一つ一つ手にとるように分かるのです。こういうところが違いなんですね。 とくに高次元にいると、地上にいる人たちの心の中の動きというのが手に取るように分かります。地上の人たちだけじゃなくて、あの世の諸霊たちの考えていること、これも手に取るように分かります。それも一人、二人の心を凝視すれば分かるという感じじゃなくて、スーッと分かってしまう感じなんですね。 たとえば新宿なら新宿の交差点あたり、今、紀伊國屋か何かあるけれども、紀伊國屋の前で、いっぱいデートの待ち合わせしているけれども、ああいうのをパッと見るとだいたいスーッと分かるのですね。このうち大体一割が待ちぼうけ、多分ソデにされるであろうと一発で分かってしまいます。見ていると、大体分かるのです。 カップルが三十組ぐらい公園の入り口あたりでうろうろしているけれども、そのうちの十八組は別れるであろう。十二組は結婚しそうになるけれども、その中の四組は多分同棲(どうせい)のままで終るだろう。こんなの、見ただけで分かっちゃうんです。一瞬です。 皆さんはこういうことを信じられないだろうけれども、私たちの世界に来るとすぐ分かっちゃうのですね。手に取るように分かります。こういう不思議な世界なのです。 ただ、こちらの世界に住んでいると、だんだんそういうふうなことが通常のこと、ごく普通のこと、そう感じるようになってきます。 5.高次元世界は波動の世界 そういうことで、私のいる世界に、地上にいる皆さんを、ご案内してお見せするとしましょう。どういうふうになるかっていうことを説明しますと、まあ、視覚的に言えばどうかっていうと、まわりは、さっきも、若葉緑と言いましたけれども、非常に美しい緑があるのです。私たちの状態を、ガス体みたいだって言っている人もいます。けれども、もちろん、実体はそういうふうに言えるのだけれども、やはり人間的感覚に訴えて見ることは可能なのです。 たとえ話をするなら、テレビなんかがそうですね。テレビ局は電波を一生懸命流しているわけなんだけれども、あなた方は買い物していても、散歩していても、コーヒーを飲んでいても、あるいはハブ茶を飲んでいても、そうぃう電波の存在というのを忘れています。 ところが、そこにテレビを置いてね、東芝さんかソニーか何か。ソニーの色がいいとすると、ソニーのカラーテレビを置くと、それでスイッチ入れちやうと、あら不思議ですね、アフリカの景色とか、オーストラリアとかいろいろ映るわけです。オーストラリアでカンガルーが跳んだりしているのが映りますね。こういうふうなんですね。 だから、本当は目にみえぬ電波が飛んでおっても、それを分かるようにすれば、つまり視覚化すると、テレビの中でカンガルーがピコピコ飛んでいるような感じですね。実際にそこにオー・ストラリアがあるかといえばありゃしないのです。ありゃしないけれども、そういう装置を設けるとオーストラリアみたいなのが見えてきます。そしてカンガルーは生き生きと動いていますね。 こういうふうに私たちの世界でも、本当は実体として見れば、これは意識の世界であり、想念の世界であり、波動の世界なのです。ですから皆さん方でいえば、目に見えぬ電波の世界のようなもので、実体はなかなかつかめないのです。手にとってつかむわけにはいかないのです。 ただ地上にいる人間に分かるような形で、訴えかけるとどうなるか。つまり、地上の人をこちらに、九次元世界につれてきて、「じゃあ九次元をご案内しましょう」という場合にどうしたらいいのかというと、今、いったテレビ装置と一緒なのです。こういうものを見せるわけですね。テレビ装置みたいなのを見せる。あるいはそういう特殊なメガネみたいなのをかけさせて見せると、まわりの世界が映像として見えるのですね。そういう電波の世界が景色となって見えるわけです。 ですから私なんかは、まだ地上を去って短いから、そういう景色を結構楽しんでいるのです。 6.三千二百年前、地上のモーゼを指導した私 ところが古い人というか、モーゼみたいな三千二百年も地上では何もしとらん男というのは、そんな景色の中を歩いてもしょうがないから、電波みたいな形をとっておってピカピカ光りながら飛んでおるのです。だから「モーゼ」って呼ぶと稲光がピカピカと飛んできてね、「オッ、この稲光は、もしかしてモーゼか」とか言ってね、稲光が飛んでいくところをパッと手でつかむのです。パチっと右手でつかむと、「ウーン、見破られたか」ってね、姿を現すと、そこに古代エジプト時代の姿のモーゼが立っとるわけです。身長ニメートル越えています。大きな男です。こういう男がどんどん歩いておったら、田舎の景色が壊れちゃうから、普通は見せるわけにはいかんのです。だから稲光みたいにピカピカと飛んでおるわけです。 天上界のプリズムの光でいうとモーゼの色というのは赤い色ですから、赤い稲光がピカピカ飛んでおるのです。だからこれを目にも止まらぬ早さでパチッとね、打ち落とすわけです。蝿叩(はえたた)きのようにパチッと打ち落とすと、そこで、「アッ、イテッ」と頭を押さえながら出てくるのはこれはモーゼです。 ムクッと起きて、「お前やったな。貴様、よくもやってくれたな。俺をモーゼと知ってのことか」と、こういうわけですね。「おう、知ってのことだよ。お前は、俺をだれだか知っているか」「ウーン、おぬしは高橋信次だろう」「ウン、そのとおり高橋信次に対して意見が言えると思うか」ってね。そうはいかんのです。「モーゼさん、今から三千二百年前にあなたが地上に出た時に、あなたを天上界から指導したのはだーれ。言ってごらんなさい。言ってごらんなさい、だれですか」「ウーンそうですね、あの時にシナイの山に登った私を指導してくれた霊人がいましたねえ」「そうですね。シナイ山であなたを指導した霊人がいます。その人はどういう指導をしたのですかねえ」そうすると、「いやあ、あのシナイの山で『我はありてある者だ』とか、『イスラエルの神だ』とか、『ヤーヴェって神様だ』と、そういうふうに名のった神様がいました。メラメラメラと炎みたいに芝が燃えちやって、そんな神様の声が聞こえてきました。そしてその神様を信じとったらいろんな奇蹟が起きました」ってね。「エジプトで王様に追いかけられた時も、紅海を真二つに割って私たちを逃がしてくれたのも、その神様でした」と。 あるいはシナイの山でモーゼが四十日間、まあこの四十日間というのは、大袈裟(おおげさ)だけれどもね。腹がへったから長く感じて四十日間いたように思ったわけです。実際は四十日間いなかったわけだけれども、山へ登って一応四十日間ってことになっているからその間瞑想しておると、天が裂けて声が聞こえてきた。「モーゼよ、我は汝の神。汝らイスラエルの神。我以外に神なし」という声が聞こえてきました。それで有名な「十戒(じっかい)」というのがモーゼに授けられましたね。これは皆さん、内容はご存知です、「我以外に神なし」と言って、偉い神様がいばっていました。「だれですかそれモーゼさん、それ言ったのはだれですか」って言ったら、「ウーンそれ言ったのはまあヤーヴェとかエホバとか言っているけれども、本当は最近で肉体を持った人というと、もしかして高橋信次っていう人だったりして」「そうだろう。ねえ、それであなた私に説教するつもりか」「ウーン、でもタンコブ痛いから言いたいんだよ」なんて言ってね。「そういえば、その時にお世話になったなあ」って、タンコブをさすりながらモーゼがすごすごと帰ろうとします。 7.逆に今回、地上の高橋信次の指導霊はモーゼだった しかし彼は、「ちょっと待った」と立ち止まりました。「こら高橋信次。お前、人のことばかり言って、自分のことを忘れているじゃないか。お前が高電工業を起こして事業をやっとって、まあ浅草にハ起(やおき)ビルなんか建てちゃって、一生懸命サウナ風呂か超音波風呂か知らんけど、そんなのつくって、人の体の垢(あか)を落とそうなんて考えて、それで金儲けしよう、銭儲けしようとしていた時に、そのお前のほっぺたをパチッとたたいて神の道を教えたのはだれだったか、言ってみろ」と、モーゼは振り返って言いました。高橋信次「ウーン」と一瞬言葉が詰まりました。「ウーン、言ってみれば、それはワン・ツー・スリーという指導霊だった」。 ワン・ツー・スリーと名乗る古代エジプトの霊が出て来て、「高橋信次よ、お前、何をやっておるか。お前そんなことをしている暇かあるのか。お前ね、コンピューター機器だけ使っているのが仕事じゃないぞ。お前、電気屋じゃないぞ。お前、そんなことをしてね、お風呂屋なんか始めるつもりか。最後にはお前。×xx風呂。改め゛○○○ランド゛なんかやるんじゃないか」なんてね、そういう厳しいお声がかかってきました。ワン・ツー・スリーっていう人から。 そうすると、「そうですか、ばれましたか、私の醜(みにく)い心の中が。いや金儲けさえできれば私は……」「何を馬鹿なことを言っとるかお前は。心を入れ替えてお前は反省しなさい、三日以内に悟れ。悟れなかったら、お前の家庭はめちゃくちゃ、お前はもう狂い死にするぞ。それでもええのか、悟れ」ってね。そして、「厳しくあなたを指導したのは一体だれであったか」「はー、ワン・ツー・スリー」「ワン・ツー・スリーとは一体だれであるか」「ウーンまあよく考えてみれば、モーゼっていう人でしたね、本当は。本名は」。 「それみたことか。私は三千二百年前にあなたにご指導を受けたけれども、最近ここ十年ほど前にあなたを指導したのは一体だれか」「はあーモーゼ様です」「そうだろう。折角(せっかく)人が気分よくビカピカと稲光で飛んでいたのに、よりによってそのモーゼを蝿叩(はえたた)きで打ち落とすとは何事であるか」と言い返されます。「ウーン、言われてみりゃあそうかな。古い恩というのは忘れられるものだけれども、最近の恩というのは忘れちゃいけない。恩を忘れるようじゃいけない」。 私は生前よく言いました。感謝ということにはね、報恩という行為がともなわなければ意味がない、感謝に対しては報恩です。こう言いました。「そのことを教えたのはだーれ」「モーゼ様です」「そうでしょ。私があの世から、インスピレーションを与えて、あなたにそう言わせたのでしょ。じゃ、あなたその教えを実践していますか。ね、あなた生前『心行(しんぎょう)』とかいうお経をつくって、人間は心と行いが大事ですよ、なんて言っていたでしょ。心の中だけで感謝と報恩を思っていても、行いはどうなったの」と言われ、「あーモーゼ様、大変失礼しました。あなた様のおかけで現在の私があります。本当にありがとうございました。あなた様のおかけで、私は未熟な悟りを得て、未熟に教えて、そして死後GLAが混乱しました」なんて言ったらモーゼ怒っちゃいますから、そういうわけにはいかないですね。「いやそうじゃありませんけれども、あなた様のご指導のよろしきを得て、私は見事に悟り、人びとを救うことができました」。こういうことを言うと、これでモーゼの気分が良くなります。「まあそう言ってくれればね、いい気分だから、ちょっとまたひとっ走りいくか」ってピカピカしながら向こうの山まで飛んでいくのです。こういう世界です。 8.九次元の世界はスイスの別荘地のようだ これはあなた方に分かるように言っているのだけれども、こちらはそういうふうに本来は、光とか、想念の世界です。ところが人間的に分かるように言えばね、やはり私たちの世界でも、風光明媚(ふうこうめいび)な景色もあるし、丘もあれば池もある。湖もある。そういうきれいな世界です。 まあ表現してみるとすれば、そうだね、スイスか何かの非常にきれいな景色のああいうところです。住みたいでしょう、別荘か何かを建てて。しかもいいことには、「別荘を建てたいな、別荘がほしいなあ」と思うと、もう湖のほとりにポンと別荘が建っちゃう、これが私たちの世界なのです。 別荘の中に入って、「安楽イスがはしいな」と思うと、ポンと安楽イスが出ちゃう。安楽イスでウトウトと揺れていると、「暖炉(だんろ)がほしいなあ。ちょっと冬になってきたかな」と思うと暖炉がポンと出てくる。ああ嬉しいね、暖炉が出てくる。「薪(まき)がほしいなあ、柴(しば)刈りにいこうかな」と思ったら柴刈りにいく必要がなくて、薪がポンと着きます。「火をつけたいなあ」と思ったら、火がメラメラと燃えてきます。こういう素晴らしい世界です。「ミルクが飲みたいなあ」と思えばミルクが出てくる。「蜂蜜(はちみつ)をなめたいなあ」と思えば、蜂蜜がなめられる。とにかく素晴らしいです。 9.地上にいる妻や娘への心配 いないのは、母ちゃんと娘だけです。それだけはいません。残念ながらね。私の家内、高橋一栄は、まだ地上でやっとります。早く来なさいと言いたいけれど、まだ寿命があるから、そういうわけにはいかないです。まあ頑張って下さい。 それから私の娘の佳子っていうのも、GLAで頑張っているようです。もうそろそろ三十になったかね。まあ、こんなことを言っちゃいけないけれどもね、娘三十、父ちゃんは心配しています。時どきは便りをよこしなさい。田舎の父ちゃんは心配していますよ。どうしていますかって、本当は言いたいんですよ。けれどもあなたの便りがないから、返事を書けないんですよ。どうしていますか。そういう気持ちがあります。 私はあの世で、そういうようにスイスの湖畔のようなところで暖炉に火が燃えている部屋にいます。そして皆さんに分かるように言えば、目の前に水晶玉みたいのをポンと出してね、その水晶玉を見つめていると、下界の姿が映ってきます。下界が映るとGLAの八起ビルか何か、もう閑散としちゃって、「あーもう寂(さび)れてきているなあ」とかね。 水晶玉が分からない人は、これはテレビでもいいですね。テレビ局のテレビで、もう何十台もテレビがあって、今、ロケシーン中のいろんな角度から映ります。こういうふうに次つぎと地上のいろいろな姿が見える。こういうテレビと言ってもいいです。そういうようにも、できるんですね。ま、こんな世界です。 10.テレビ局のような私の住まい だからあなた方、地上からみれば、「高橋さんもすいぶん淋しい思いをしているんじゃないか。一人で孤独なんじゃない」なんて言ってくれるけれども、孤独なんです。実際そうなんですよ。私の友だちは古い人ばっかりでね。もう三千年前、二千年前、五千年前とか一万年前とか、こんな古い人ばっかりがいて話が合わんのです。 今言ったように、水晶玉を通して地上を見るなんていうと、彼ら古い人も分かってくれるんですがね。実際は、私の場合、近ごろはNHKの番組を見るようにテレビを使っていますから。この部屋の中を見て下さい。テレビが十台あって、チャンネルを変えれば、アフリカだって、日本だって、アメリカだってみんな映ります。これ四次元映すテレビ、これ五次元映すテレビですよ。これ七次元映すテレビね。スイッ千はこれです。手で押すだけでポンポンチャンネルが変わります。 こんなのあなた方知っていますか。実際ノコノコと畳の上をはっていって、スイッチを変えるんじゃないんですよ。そんなことするから、夫婦で喧嘩が絶えなかったのです。「1」チャンネルを見るとか「3」チャンネルを見るとかいって、夫婦で喧嘩が絶えなかったこともありましたね。「おまえが行ってチャンネル変えろ」と。「私は今、ご飯を食べているのにあんた行って変えて来なさい」ってね。こういう夫婦喧嘩がありました、昔は。ところが最近はあなた、テレビもリモコンですよ。ポチポチとボタンを押せば、チャンネルが変わるんですよ。これで夫婦喧嘩も、なくなりました。古い人たちは、こういうことを知りません。私だけです。こういうことでリモコン式のボタンを押しながらいろいろなテレビの番組を見て、地上とか、四次元、五次元を見ています。こういうことをしています。 11.モーゼ、イエス、ブッダの住居 そういう新しいことを私はしているけれども、モーゼなんか掘っ建て小屋に住んでいますから、「ずんぶん変わったじゃないの。あんたいいことやってくれるじゃないの」と言ってるわけです。 イエス様なんかどうしているかっていうと、そりゃあイエス様っていうとイメージがあります。もちろん教会です。あの世、九次元世界に教会をつくっています。教会みたいなところで、やはり十字架かけて、一生懸命朝の祈り、夕べの祈りをやって、地上の皆様に一生懸命恵みを垂(た)れているのです。これがイエス様の世界です。 まあブッダの家ってね、今、ちょっと留守していますけれども、ブッダの家というのがあります。ブッダの家っちゅうのは、やっぱり、まあどっちかというと、洞窟だというと怒っちゃうだろうから、洞窟じゃないんですよ。洞窟で六年間修行はしましたけれども、洞窟に住んでいるわけではありません。ブッダの家っちゅうのはやっぱり束洋風のね、何ともいえない家なんです。インド風でもないし、仏教が中国に渡ったから、中国風でもあって、日本建築でもあったりして、何かよく分からないんだけれども、そういうふうな束洋風の建物があるんです。そこにブッダの家ってのがありましてね。まあ、そういう家があるんです。それがブッダの家です。いわば日本建築です。 12.パルテノン神殿に住むゼウス 他にもありますけれどもね。たとえば、何からいこうかね。有名な人からいくと、まあゼウスさんて有名ですね。九次元にゼウスさんているけど、ゼウスの家なんてあなたどんな家だと思いますか。そりゃそうです、もうパルテノン神殿です。もうそりゃ格が違います。立派な大理石です。大理石で建っています。素晴らしい白い大理石です。階段があってね、トン、トン、トン上がっていって「ゼウス様」なんていうと、奥の方の大理石でできた噴水からパーツと水が噴いちゃって、紅色に霧がかかってきちゃって、そして「何か用か」ってゼウスがスーツと体を現してきます。こんなところに住んでいるのがゼウスですね。こういうような違いがあります。 高橋信次みたいにテレビ局とか、そんなのを持っている家に住んでいるんじゃありません。向こうはパルテノン神殿です。 13.中国様式の王宮に住む孔子 あるいは他に何だろう、あー孔子、孔子様がいます。あなた分かっていますでしょう。チャイューズですよ。そりゃ、あなた来々軒(らいらいけん)です。来々軒の世界で、もちろんそういう中国の王宮に住んでいます。これが孔子様の世界。まあ分かるように言えば、そういうことですよ。長い衣裳を着てやっています。チョビ髭生やしています。なます髭ですか、生やしてやっとります。まあ、こういう世界なんです。 14.個性の差はあれ愛と慈悲は九次元人の専売特許 ただね、私たちの世界の本当にいいところは、何かというと、それぞれの人がそれぞれの個性を持ってやってるけれども、皆さん共通しているところがあるのです。 今言った高橋信次みたいにネクタイしめて、そしてテレビを見てみたり。あるいは、チャンチャンコを着てね、私も、もう還暦ですから、チャンチャンコを着て、茶の間でひっくりかえったりしている人と、パルテノン神殿の中を歩いている人、あるいは、来々軒のラーメン食べながらのれんをくぐっている人、こういう人たち、外見はいろいろな違いがあるんですけれども、そういう個性の差はさておいて、私たちの世界は、本当に愛と慈悲という、この二つの言葉で貫かれているのです。 愛といえばイエス様ね。慈悲といえばブッダ。そういうことですけれども、イエスとブッダだけの専売特許ではなくて、愛と慈悲ということはね、みんなのやっぱり専売特許なのですよ。 そういう意味で、皆さんがね、九次元でも、多少競争もしているんだけれども、どれだけ愛と慈悲とを下次元の世界へ垂れていくかということを皆研究しているのです。 イエス様は教会で十字を切りながら一生懸命考えているし、孔子様は来々軒の中を通りながら、ラーメンのドンブリの模様なんか考えながら、中国人民をどうやって教おうかと、そういうことを思っています。 モーゼはモーゼで、まあ杖を振りながら、「この杖はもう蛇にならん。昔はよく蛇になって、空中を飛んだものだけど、最近の杖は蛇にならんから、新式のを買わにやいかん」なんて考えながら、「しかし私は、地上の人たちを救いたい」こういうことを言っています。 とくにモーゼっていうのは今、地獄霊たちの要するに掃討(そうとう)作戦、掃討っていったらまずいかな、地獄霊たちを救出するというような大きな役目を持ってて忙しいんです。だから赤い稲妻になって九次元からピカピカ光って四次元まで飛んでいくんです。そして地獄の軍隊を一生懸命やっつけております。これがモーゼです。こういうことをやっています。 こういうふうに私たちの世界というのは、ほんとうに愛と慈悲の世界なのです。 15.地上の人たちよ、愛と慈悲の世界を目指せ 地上で皆さん愛と慈悲なんて、言っている人多いでしょうけれど、本当の愛と慈悲というのはね、人間の一日二十四時間すべてが、人類救済のために使われている、そういう生き方っていうのが、本当の愛と慈悲なんですよ。 ところが、地上の人はどうしてもそうはいかない。それはね、「今日のお昼ごはん何を食べようか」とか、「今日のカップラーメンがまずかったんでねえ。やはり孔子様にお願いして、もっとおいしいカップラーメン買わにゃいかん」とか、「晩ごはんのチヤンコ鍋はあまり食べ過ぎると、相撲取りみたいになっちゃうから、千代の富士は、もっと肥った方がいいけれども、普通の人は、そんなに肥っちゃいけない」と、こういうことになります。 こういうふうに地上の人たちは、束縛されることが非常に多いから、どうしてもそこから脱出できません。ところが私たちには束縛がないから、精一杯人びとを救うことができます。こういう自由な世界です。 ですから、私たちは、今毎日、八次元をどうするか、七次元をどうするかです。こういう如来、菩薩の人たちを指導したり、あるいは地獄で迷っている人たちをどうやって救おうか。あるいは地上の人たちに、法の神理をどうやって伝えるか。こういうことを日夜みんなで話し合っています。九次元世界十人の人たちと話し合いながら、そういうことを日夜やってそれぞれで努力しています。 そして力が足りない時には、お互いに協力しながらやっています。私とモーゼが協力したり、あるいはイエス様とブッダが協力したり、孔子様とマイトレーヤという人が協力したり、いろんなことがあります。そういうことをしてるんですよ。そういうふうにすべての時間を人のために生かせる。 地上にいたら、そうはいかないのです。風呂に入ったらシャンプーで頭を洗わにゃいかん、こういう苦労がありますけど、私たちの世界にはそういうことがない。すべてを人のために使える。こういう愛と慈悲の世界に生きています。 皆さんはね、こういう九次元世界に、できるだけこの地上の世界を近づけるために、努力していただきたいのです。それが地上に出ているあなた方、光の指導霊たち、あるいは光の指導霊の指導を受けて、学んでいる人たちの仕事なんですよ。 そういうことで今日はまあ、大ざっぱにね、私のいる世界の話をしましたけれども、愛と慈悲との世界というのはまさしく、私の住んでいる九次元世界のことなんです。 今日でどうですか、私の世界が分かったでしょうか。稲妻の世界でありNHKの世界なんです。ま、そういうことで今日のお話は終りにします。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/261.html
目次 1.神による動物たちの創造 2.ムカデの創造の秘密 3.生物の創造は高級神霊の合議による 4.諸生物誕生の背景には、神のバランス感覚と人間への教訓がある 5.人間の運命に見る春夏秋冬 6.バイオリズムと運命の波動 7.運勢には三~四年の小さな周期と七~十年の大きな周期がある 8.自己の人生の周期の春・夏・秋・冬を見きわめて事にあたれ 9.神理の伝道にも四季がある 10.自分が絶好調の時には手控えして徳を積め 11.壮大な法を説く前には準備期間をおけ、というのがGLAの教訓 12.人間として生まれたことの幸運に気づけ 13.運命を超えるとは、人生の周期をよく見ながら、ひとつひとつレンガを積み上げていくこと (1987年2月2日の霊示) 1.神による動物たちの創造 今回の私の本も、いよいよ第五章「運命を超えて」というところにはいってまいりました。きょうは二月にはいりまして、八十七年二月の二日になります。東京地方は珍しく雪が降っています。 この前も雪の話をしていたなんていう人もいるでしょうけれども、たまに雪が降ったときには、言わしてください。雪が降りました。そして外はひじょうに寒いです。この雪が降って寒いというような情況を見ると、なにか人生というものをしみじみ思わせるものがあるわけですね。 神様はほんとうにいろんなものをよく創ったものだなあと、私は最近つくづく思います。人間も創ったし、人間のなかでも男と女を創りました。また人間に近い犬や猫も創りましたし、猿も創ったしね。鹿も創ったり、ウサギも創ったり、ネズミも創ったり、またまたトカゲ創ったり、カエル創ったり、蛇創ったり。まあよく創るなあと思うぐらい、いろんな動物創ってますね。ちょっと考えつかないでしょう。 もしみなさんが神様だとして、もっと大きい偉い神様から「こら、そこの地球の神様よ、お前に全権を与え、地球という場を与えるから、お前はなにか創造してみなさい。」と。「なにか物を創ってみなさい。」といわれてね、地球をポンと一個与えられたとしましょうか。さあ、そこでなにを創るか考えてみてください。 みなさんどうですかね。人間、まあ人間ぐらいはほかのところに住んでいたからモデルがあるけれども、人間以外の生物を、たとえば創ると考えてね、いったい、なにを創りますでしょうかね。 そうすると、どうでしょうかね、まあ猿みたいのは思いつくかも知れませんね。犬みたいな四つ足創ろうっていうんで思いつくこともありましょう。そしたら犬創ったら、それから類推(るいすい)して狼なんていいんじゃないかってね。 狼創ったら、まあ狼もいいけど、そういえば、たてがみもあったほうがいいじゃないってライオン創ってみたり、ライオンにちょっとシマシマ入れてみようというんでトラさん創ってみたり。それこそいろいろ発想ができますね。芸術家なら、このへんは考えつくでしょう。 猿のほかになにかあるだろうか。まあ、ちょっと空も飛ばしてみようじゃないかっていうんで羽根があるのを創ってみましたね。飛行機なんか現在飛んでいるけど、あんなのもう大昔に神様が飛行機創っているんですね。肉体を持った飛行機、つまり鳥ですね。鳥が空を飛び始めて、もう何億年も経ってから、人類が飛行機創ったんです。 だから、ものまねも、ずいぶん遅れていますね。こういう、ものまねっていうのは、コンコルドみたいのは、もうじゅうぶん飛んどるわけです。大昔からね。 そして、それだけではおもしろくないっていうんでね、たんなる鳥じゃおもしろくないから、コウモリなんかを創りましたね。洞窟(どうくつ)のなかに逆さまにぶらさがっちやってキィキィキィっていいながらね、やっぱり活躍するのはドラキュラ映画ぐらいしかないですけれどもね。 通常の人間はコウモリなんていうのは存在しているというのを忘れているでしょう。たまにドラキュラ映画のリバイバルがあるときに、それを見てドラキュラが歯をむいて美女の首筋にカプッとかみついてね、あそこのシーンだけ自分がやりたいなんて思いながら一生懸命見ていると、うしろにピアノ線でつるしたコウモリがキィキィと、こう飛んどるわけですね。 あれを見てコウモリって生物があったね、こんなことを思いつく人もいるでしょう。あるいはコウモリ傘見て、ああコウモリがいたねと思う人がいるかもしれません。こういう人もいるけど、まあコウモリっていう動物があります。 あるいはいろいろと考えてみると、手足があるのを創りましたね。二本で立つのと四本足で立つのを創って、それから手を二本なくして羽根に変えて空飛ぶのを創って、今度は手がないのを創らなきゃいかんから、じゃズングリムックリのを一発いってみようというんで蛇を創ってみたり。 あるいは蛇だけじゃちょっと恐ろしいから、もうちょっとかわいいのを創ってみようってね、ミミズ創ってみたり。あるいはミミズだけでは、あれだというんで、やっぱりイモ虫創ってみたり。いろいろやっぱり創ってみました。イモ虫に足がありましたかね。失礼しました。 2.ムカデの創造の秘密 まあイモ虫より、もっと進化したムカデみたいのが、足が百本あるやつがありますけれども、ありゃほんとうは三十二本ぐらいでしょうかね。そういうのもあります。だからあれだって創造したんでしょうね。 これの足、何本にするかといろいろ考えてね、おっ、ちょうどいいところに、ここに理科系の高橋信次がおるから彼にちょっとソロバンはじかしてみるかってね。 「もし、高橋信次。ムカデっちゅうのは足百本て書くのだけれども、お前、足何本にしたら合理的に動くのか知っているか。」ちゅうて。 「そうですね、これは新幹線の要領でいくとね、車両には車が、だいたい八個ぐらいあるといいでしょうか。四個でも走りますけど八個あってもいいし、まあ、そういうことで偶数の足のほうが、奇数より偶数の足のほうがいいじゃないでしょうかね。奇数だと、やっぱり一本の足が変なほうに行くと、ひっくり返る可能性がありますから、やっぱり新幹線といっしょで偶数のコマをつけたほうがいいんじゃないでしょうかね。」そういうふうにいいます。 「そうか高橋信次よ、偶数がいいか。じゃあ偶数で、お前何本にする。」 「まあムカデは足百本ていいますけれども、百本足つけると経済的にいろいろと困難がでてきますから、やっぱり百本は多すぎる。しかし四つ足では不足しますし、六つ足って、この前、昆虫創ったところです。だから昆虫といっしょにしたらかわいそうだし、まあ百足というぐらい、えばっておるのですから、もっと足を増やしちゃいましょう。まあ私が考えて六本と四本掛け算すると四六の二十四、二十四でもいいけど、まあもうちょっと増やして、おまけに一ダースぐらい増やして三十六本ぐらいにしましょうかね。」と。こんなこと相談して、まあそのとき、私はムカデの足何本にしたかいま、記憶はさだかじゃないですけど、たしか、そのくらい、二、三十本ぐらいあったような気がします。こんなの高橋信次がみんな、決めたんですね。ムカデの足の相談を受けて、動物というのは将来できる新幹線という姿を見てみると、新幹線が、だいたい十六両編成とかね。十六両編成で、だいたいコマが二個ずつついて三十二個とかね、十六かける二は三十二ですね。三十二個とかね。 こんなの将来のね、数億年先に新幹線が走っている姿を霊視しながらね、予知しながら、予想して、その新幹線の姿をイメージしながら、私はムカデを創ったわけです。 3.生物の創造は高級神霊の合議による だから、そういうことをね、遠い遠い昔に、私たち、まあ神様の仲間入りをしている高橋信次のような高級諸霊たちですね、一生懸命、議論して、将来、日本にはJRができるから、ムカデのような新幹線ができるから、そのイメージとして私はムカデを発案する。そして稟議書(りんぎしょ)が出ました。 そのあと、みなさんのハンコを取りましたら、お釈迦様は「ウンそうだな将来のことを考えると、まあムカデもいるだろう。」とハンコを押してくれました。ああ、よかったね。お釈迦様のハンコを取りました。 イエス様は、どうでしょうか。「ムカデはそうだね、イメージ的にはいまひとつだけども、まあ山を越え、谷を越えてね、やはり勇ましく歩いていく姿は、なんとなく人生を彷彿(ほうふつ)とさせるので、まあよかろう。」とイエス様はハンコをくれました。 ああ、よかった。じゃあモーゼ様は、どうですか、ムカデについては。「私は、そういうふうに地べたを這(は)っている動物は、どうも好かんな。スッキリせん。」とね。「やっぱり動物というのは勇ましく二本足か西本足で立たにゃいかん。あんな忙(せわ)しく歩いているのは、どうも性に合わん。」といってね、モーゼは、ちょっとつむじ曲げたんですけど。 「まあ、そういわずに、あなただって、いつ地べた這うか、わかんないんだから、将来のこと考えて、まあいちおうハンコ押してくださいよ。」なんていってね。「まあ、まあしょうがない。じゃハンコ押しておけ。」なんてね、ポンとハンコ押しました。 まあ、こういうふうに高級諸霊のね、神様方のハンコもらって、ムカデのイメージが決定されて地上にムカデを創りました。まあ、こんなことをしたわけです。 4.諸生物誕生の背景には、神のバランス感覚と人間への教訓がある どうですか、みなさんなんの話をしているかわからなくなってきたでしょう。なにを話しているかというと、神様というのは、いろんな世界を創られたっていうことをいま、話しておるのです。春・夏・秋・冬というような、そういう季節に合う生物を創りました。 なぜそういう生物を創って、そうした四季という周期まで創ったか。こんなところも考えてほしいんです。 やっぱり神様のひとつのバランス感覚なのですね。ひじょうにバランス感覚がいいんです。 そしていろんな生物が、いろんな苦労しているように、ムカデが一生懸命、足を動かしているように、アヒルが水面下で一生懸命、足を動かしておるようにね。 蛇が一生懸命、体をくねらして前へ進もうとしておるように、猿が一生懸命、木に登っておるようにね。 鹿が一生懸命走ったり、ウサギが一生懸命、穴のなかに逃げ込んだり、熊がね、冬眠のために一生懸命食べておるように。ライオンが一生懸命昼寝をしておるようにね。 やっぱり人間というのも、そういうふうに、いろんな努力せねばいかんのですよと。そういうことを、そうした動物を創りながら神様というのはね、人間に教えようとしたわけですね。 まあ、ああいう動物たちの姿を通して、あなたがたも悟っていきなさいよって。まあこういうことを神様は教えられたわけですね。 5.人間の運命に見る春夏秋冬 まあそうして、その生物いろんな生物が生きている世界っていうのを見てみると、春があり、夏があり、秋があり、冬があります。 春ってなんですか。春っていうのは、やっぱり希望ですね。ひとことでいうと希望を象徴しているのが春なのです。 夏ってなんでしょうかね。繁栄なんですね。 秋ってなんでしょうか。刈り入れもあるし、実りもあるし、実りと凋落(ちょうらく)と両方ですね。移り変わり、移(うつ)ろいだね。秋っていうのは、そうだね、やっぱり盛夏のあとのどちらかというと衰退に近いでしょうね。衰退。 そして冬っていうのが、冬枯(ふゆが)れというようにね、あるいは試練、困難、こういうものを創っているんですね。 この循環がひじょうにいいと思うんですよ。困難がきてね、困難に打ち勝って希望を持ち、希望をそのまま持っていくと、やがてそれがね、繁栄となる。 しかし繁栄もやがては衰えていく。でそしてひとつの試練がくる。しかしそのなかから希望を見出していく。また繁栄していく。こういうふうな循環サイクルというのは人生のなかにいろいろあります。 ですからね、きょうの主題は「運命を超えて」っていうことなんですけれども、人間にはね、やはり運命のなかに、こうした道筋がひとつあるということをやはり念頭においとかなきゃいかんのです。 それは春があり、夏があり、秋があり、冬があるように、朝があり、昼があり、夜があるようにね、こうした運命も周期っていうのがやはりひとつあるのです。まあ事実としてあります。 ですからいま、たとえば運命の本とかをだすと、ずいぶん売れているようですね。占星術だとかね、「まあ、あなたの運勢は、あなたは金星人ですから、あなたはなんとか人と合いません。」とかね。「あなたは火星人ですから、水星人とは相性が合いませんから、これで結婚すると夫婦はやはり破綻(はたん)するでしょう。」なんてね。「結婚生活は破綻するでしょう。」なんて、こんなことをいって一生懸命本を売っている人もいます。 あるいは姓名判断に一生懸命こってね、国会議員にまでなった人もいます。あれは、やっぱり自分の名前がよかったのでしょう。 あるいは最近は、やたら金運だとか、ドンドン運がついてくるんだとか、そういう類(たぐ)いの本を出して、そうしてずいぶん儲かっておる人もいらっしゃるようです。まあこういうふうに、どうも運の本にね、運とか、運命について本を出すとやたら売れるのです。 ですから私のこの霊言集もね『高橋信次の霊訓による大金の儲け方』、あるいは『高橋信次の霊訓による繁栄の仕方』『ドンドン会社が大きくなる方法』、もう『金が入ってウハウハ笑いが止まらん方法』とかね、まあこういう標題をつけると、おそらく出版社が大儲けして、まあ〇〇さんも大儲けして、そしてどこか温泉で芸者でもあげてね。 あるいは温泉で芸者をあげるだけじゃお金の使い途(みち)がないから、ちょっとハワイかなんか行っちゃってね。ハワイでちょっと執筆するからなんていいながらね、波乗りかなんかしちゃって。 そのうち溺れちゃったりしてね。まあ、そういうこともあるかもしれませんけれども。 まあ高橋信次がそんなに金儲けがうまかったかというと、まあそれほどでもないんでね。 もうちょっとで、うまくなりそうなところで私は、あの世へ行っちゃったんで、まあそれは実証できませんでしたけれども。 6.バイオリズムと運命の波動 まあ、そういうことを教えるためにきょうは「運命を超えて」っていっているんではないですよ。まあそういうことでね、人間の運勢というのは、やはり周期がくることはたしかなのです。 これはひとつの法則なのですね。そういう春夏秋冬、こうした循環があるように人間の運命というのも、そういう循環のなかに生きています。 そしてそのサイクルがいろいろあります。一日のなかでも、たとえば体調のいいときと悪いときと循環があるように、やっぱり一カ月のなかでも、やはり循環がありますね。 これをいま、生命保険のおばちゃんなんかがきまして、あなたのバイオリズムとかいってね、持ってくるでしょう。 そして「知性がいま、最低の日ですよ。」「二月二日は、ヨガのある先生は知性が最低の日です。」とかね。そして「身体のリズムも最低です。」ってね。「感情のほうも、明日ぐらいは最低です。」とか、「なにか、これはいま最低の波が、いまちょうど二月の頭に集中していますよ。」とかね。 こういうのを赤線、青線、黄色線いれて持ってきますね、生命保険のおばちゃんが。 そして「なんとか生命保険に入ってくれませんか。こんなふうに運命というのはあるんですから、危ないときには車にはねられるかもわからんし、なにがあるかも知れません。そのバイオリズムが最低のときに、たとえば知性のバイオリズムが最低のときに入学試験受けたら、得点は最低で国立大学にはいれませんよ。」とかね。まあこういうことをいろいろといいます。 これが当たっているかどうか議論の余地はあるんですけれども、やはり一日のうちでも人間は周期はあるし、一ヵ月のうちでも周期があるのはたしかです。それは、海でも潮が満ちるときと引くときがあるように、ちゃんとあるんですね。そして満ちたり引いたりして、やはりひとつの運動をしておるわけです。 そういうふうに人間の生命というものも、ひとつの波動なのですね。運命の波動を持っているから、やはり潮が満ちたり、引いたりするように、そういうふうな、やはり繁栄のときと衰退のときがあります。これは避けられないのです。 まあ小さな循環でいくと、一ヵ月のうちでも調子のいい日と悪い日があるでしょう。そういう波があります。また一年のうちでも、大きく調子のいいときと、そうでないときとがありますね。 まあ天中殺とか、天命殺とかいろいろありますけれども、あれもいうと、やたら売れるんですけれどもね。『高橋信次の霊示による天中殺入門』とかやると、きっと売れるでしょうけれども。 高橋信次が予告した一九八七年何月何日、この年にウサギ年生まれの人は不幸になるであろう。しかし猿年生まれの人は大金が儲かるであろうなんてね。まあこういうことを言えば人気がでるんでしょうけど、そういうことは言いません。 7.運勢には三~四年の小さな周期と七~十年の大きな周期がある そういうふうにいま、話がちがいますが一年のうちでも周期があるし、また人生というのを見るとね、だいたい見ていると、そうですね小さなリズムとしては、三~四年で一回ぐらいのリズムがありますね。三~四年ぐらいの間に、やっぱり一回ぐらい調子のいいときと、一回ぐらい調子の悪いときがあります。 それ以外に大きく見ると七年から十年ぐらいの周期がね、それぐらいの波の幅で、大きな盛り上がりと、やはり大きな引っ込みね、最低のとき、こういうふうなのがありますね。 だから人生七十年とすると、だいたいふつうの人でね、七回から十回ぐらいの大きな上がり、下がりがあるんですよ。まあ長生きしながら、よーく自分の人生を思い出して最高のときと最低のときね、ちょっとマークしてみてくださいね。 グラフに書いて、たとえば四十二のときは倒産したなあってね。三十三のときは、あのとき、大病で入院したわ、なんてね。汚職でクビになったのは五十四。六十二のとき、孫ができてうれしいと思ったら、息子の嫁から家を追いだされたとかね。 よく考えてみると、七年から十年ぐらいで周期かあるようです。みんなこういうふうに周期があるというのは、やはり宇宙の運動法則のひとつなんですね、これは避けられないんです。ですから、そういうことを前提にしてね、もうひとつ考えにゃいかんことがあります。 それはね、やはり自分自身の現在の運勢がどういう状況にあるかっていうことはね、つねづね人間は考えておかにゃいかんのです。 これを決定論的にね、やっぱりいっちゃいけないんですけれどもね。何年の何月何日に生まれたから、今年は、もうなにも活動しないほうがいいなんて考えちゃあいけないんです。そういうふうにね、運命を考えちゃあいけないんです。 しかし自分のまわりの情勢をいろいろ見ていると、ついてないときって、やっぱりあるんですね。 自分もよく病気したり、家族もうまいこといかない。どうしても成功しない年っていうのがあるし、年が変わってひとりがうまくいき始めると、みんながうまくいくときってありますね。こういうときがあるんです。 8.自己の人生の周期の春・夏・秋・冬を見きわめて事にあたれ こういうときを見ててね、人間は、その運の流れを見ながら、自分の心構(こころがま)えを決めにゃあいかんのです。 いま、自分の状態が、どういう時期が春の時期か、夏の時期か、秋の時期か、冬の時期か、これを見きわめる必要がある。この四分法でね。四分割するような考え、いま、自分は何時(いつ)の時期だろうか。 いまどうも冬だなあと思ったら、冬は試練のときですから雪がふりますけれど、これは厳しいけれど、厳しい冬のなかに一生懸命自分というものを鍛えておく。自分の精神を鍛えておくと、やがて春には花が咲くでしょうね。 ちょうどいま、受験シーズンですけれど、この冬の寒いときに一生懸命努力している受験生は三月に「サクラサイタ」「イナホミノル」とかね、そういうふうな祝電をもらうでしょう。 この冬なかに焼イモ食べながら、「まあいいや、そのうちに運が開けてくるわ。」なんてコタツのなかに入ってガァーガァー眠っているような人ってのは「イナホチル」「サクラチル」ですか、そういう通知をもらうんです。三月に。そしてショックを受けて、もう一年勉強させられるわけです。 だからいま、冬の時期だと思ったら、そうやる。で春のときだと思うと、これは希望のときだから、ここは一気にね、光明思想を持ってガンガンガンガンやっていかにゃいかんです。 春のときにはね、ようするに希望を持っていきなさい。春になったら何時(いつ)までも冬着、着てね、古いオーバーコート着たり、セーター着ちゃあいけないんです。こういうときには、ちゃんとクリーニングだして春は春の衣装に変えていきましょう。男の人でもね、ちょっと春の服を着て、そうするとなんとなくいい気分になってね、ああなんかよくなってきそうだなんてね、なんかそうしたら向こうの曲がり角から来る女の子なんか、みんなきれいに見えちゃって。 春先になると、なぜか女の子がきれいに見えてくる。春先に女性がきれいに見えてくるようになったら、まあひとつは幸福のシグナル。もうひとつは刑務所のシグナルです。みなさん気をつけましょうね。女性がきれいに見えてきたら、それは自分の心がよくなってきて生き生きしている証拠でもあるけれども、あんまり女性がきれいに見えて、上野の山かなんかで変なことをすると、変なところへ行っちゃうわけです。 まあだから両方の危険性があるけれども、あまり過度の行動は慎(つつし)んで、そこそこにがんばればね、春っていうのは希望のシーズンです。 そして夏。夏っていうのは、もう陽の照りつけるなかにね、ガンガン働くんです。ガンガン汗水たらして働くのが夏、だから夏は、かき入れどきです。体が真黒になるまで泳がなくてはいかん。汗の玉を光らせて一生懸命労働に励み勉強する。こういうときですね。夏に成果をあげるのです。一生懸命実績を作るのが夏です。 そして秋です。秋になるとようするに、その自分の実りというものを、しっかりとたしかめながら、そして凋落(ちょうらく)に備(そな)えにゃいかんです。冬に備えて心をひきしめていかねばいかん。自分の運がちょっと衰退してきたと思ったら、これは夏のときのようにガンガンガンガンやるわけにはいかんのです。これはちょっと手控えということをしなければいけない。事業でもそうです。個人のね、いろんな活動でもそうですよ。手控えをしていくんです。冬に向けてね。そしてまた冬になります。 こういうふうなもんで、自分の人生の周期をよく見きわめながら、力を蓄(たくわ)えるときと、それを発揮するときと、これを心得にゃいかんのです。本来力を蓄えるべきときにダーッとやってしまうと、ガクッとくるわけですね。 9.神理の伝道にも四季がある たとえば、こういう神理の伝道なんていうのでも、力を蓄えるべき時期というのがあるのです。これは冬の時期ですね。そして春、芽吹いてくる時期があります。芽が吹いてくるときです。でこういうとき、やはり冬から春、雪のなかから芽を出してくるときの季節というのはだいじなんですよ。 この冬の寒気(かんき)のなかで、やはり力を蓄えていく。春に向けての力を蓄えておく。しっかり栄養を蓄えておく必要があるのです。そして、その厳しさのなかに自分の身をひきしめていく。こういう時期が必要なんです。 やがて春がきたら芽吹いていきます。そして夏になったらガンガンやります。そのうち神理の伝道でも、また困難な時期がくるでしょう。やがてちょっとなんかね、あまり教団が広がりすぎて変な人が出てきたり、あんまり評判がいいんでケチをつけたりする人が出てきます。まあこんなのは秋でしょうね。 そして冬の時期っていうのがありますね。冬の時期ってなんでしょうね。あんまり冬の時期っていうと、なんかそれが頭に焼きついちやって、やっぱり活動が鈍(にぶ)るといかんから、それは言わないけれども、まあ若干(じゃっかん)、停滞する時期もあるでしょう。そういうときには、またね停滞期には、また力を蓄えていく。こういうことかだいじなんですよ。 10.自分が絶好調の時には手控えして徳を積め ですからテレビで名前を売っている評論家なんかでもね、毎日なら毎日出たり、毎週、毎週テレビ出て評論なんかやっていると、だんだん種がつきてきます。そしてあの人はいつも同じことを言っているっていうんであきられてきますね。やっぱりこういう人も人生の四季をしっかりつかんどかにゃあいかんのです。 いつも春ばっかり、いつも夏ばっかりだと思っているといかんよ。自分が売れっ子の最中というのはね、もうすでに秋の凋落(ちょうらく)の傾向が出ておるのです。 だから夏だと思っていつまでも肌を焼いてちゃいけないのです。そういうときには少しずつ控えていくんです。人気が出すぎて絶頂のときというのは、人間気をつけにゃあいかんのです。 つぎはもう凋落しかないんだから。自分が絶頂だと思ったときに、多少控えていくんです。そして冬に向けての蓄えを作っておくのです。これだいじなんですよ。これは人生の考え方です。 ですから自分がいま、最高潮、絶好調でね、もうだれからも批判が出なくてね、人気が出たと思ったときは手控える必要があります。 だからたとえば出演でステージに上がっても、三件に一件は、断わってみるとか、あるいは本なんかでね、ドンドン書けっていわれても多少手控えるとかね、こういう必要があるわけです。 じゃあ「高橋信次の霊訓集」はどうかと言われたら、もうこれは百万部突破するまで手控えしてはいけませんよ。ドンドンもっと出さにゃいけません。 二冊、三冊、五冊、六冊と、いっぱい出さにゃいけませんよ。これはもうミリオンセラーになるまで私は絶対あきらめませんから。 これは手控えてはいけません絶対に。ミリオンセラーになるまでは絶対手控えてはいけません。二万部や三万部売れただけで絶対手控えてはなりません。まあこれは心得てください。 まあこういうことは別ですけれども、まあそういうふうな心得ってのがあります。 だからあんまり調子がいいときというのはね、やはりどっかに徳を積んでおくのです。そういうようにね、力を蓄えておく。ですから事業家なんかでも、もうご飯食べる間もないほど忙しくて、忙しくてしょうがない人は心してね、やはり一日のなかの三十分か一時間、自分の時間というのを取りなさい。 自分の時間を取って、そのあいだに自分の反省をしたり、あるいは精神的な勉強、神理の勉強したりする時間を取りなさい。これは絶対だいじです。とくに気をつけるんですよ。 11.壮大な法を説く前には準備期間をおけ、というのがGLAの教訓 こういうことでなんでもいいです。宗教家でもそうですね。やたら評判が、いきなり出始めたら、そういうときには要注意しなければいかん。 そういうときにテレビに出たりね、ラジオに出たり、全国でまあいろんなことをして喜んどったら、ドスーンということがあります。そういうときにこそ、やはり手控えながらね、慎重にコマを進めていかねばいかんのです。 まあ新興宗教でもいろいろありますね。バアーッといっぱい会員入れちやってね、私は偉いんだなんてバアーッと飛び出しちゃって、少年、少女のスターみたいになってね。なんとか隊みたいになっちゃって。あんなのは、そんなに長いことは続かんでしょう。こういうもんになっちゃいますから、じゅうぶん力を蓄えにゃいかん。 高橋信次なんてのは、もうワン・ツー・スリーという指導霊から声がかかったらすぐ始めちゃって、最初七人相手に自宅で説教を始めて、それから「あれよ、あれよ」という間に、あなた何千人、何万人ね、死ぬ間際はもう何十万人いましたかね。四十万か、五十万いたかもしれません、会員がね。 あっという間に、七年ぐらいで七人から数十万人にまでふくれ上がりました。そしてあっという間にふくれて、先生がポキッと折れて死んじゃったら、いきなり大教団になったもんだから先生がいなくなったら、もう混乱してね。あと、支離滅裂(しりめつれつ)といったらいいすぎだけれども、もう弟子たちは、チリヂリ、バラバラになっちゃいました。 まあこれも考えてみれば、なぜかっていうとね、人がたりんのです。たりなかったと思いますね。GLAもね。私が一気に始めちゃってね、じゅうぶんな準備なく始めちゃって、ダーッと広げるだけ広げちゃって、全国各地でもう現象してまわってね。歩きまわって、悪霊出して、一生懸命悪霊と話して歩いていたから、悪霊が見たいから、みんな一生懸命ね、「オイ悪霊見に行こうぜ。」っていってね、一生懸命GLAきて見るようになりました。 それでお客さんいっぱい集まってね、お客さんいっぱい集まったから、これから木戸銭(きどせん)いっぱい儲かるぞと思ったときにパシャーッとね、崩れちゃうんです。こんなことありますね。 こういうことでGLAの教訓も、みんなやっぱり肝に銘じてほしいんです。私が準備なく、いきなり始めて、もう広がる放題、広げまして、あっという間にあの世に行っちゃって、あとがたいへんになりました。 私は霊現象が起きて、すぐ本を書いたから、なかには混乱がずいぶんありますね。まちがいもありました。まちがって考えたりしたために「あなたは偉大な光の天使だ。」なんて私が最初のころいっちゃったために、あとで取り消しできなくなったのが、いっぱいあります。いったん私が「あなたは菩薩だ。」とか「如来だ。」とかいっちゃってね、あとでね、「いやまちがっちゃって、あのときは、ちょっと早まった。」なんてねいって引っ込めると、本人怒っちゃうからね。そういうわけにはいかなくて、私がいったもんだから、もうすぐに偉くなって高弟になっちゃってもう、高橋信次の次に、釈迦、キリスト、高橋信次の次は俺だというような人でね、いまだに全国各地で説法しているような人もいます。 こんなの私が初期にまちがった人ですね。準備を置かずにやると、こうなるのです。まず準備を置いて春だと思ったら、そろそろ希望を出して、夏には、かき入れる。そして危いと思ったら、また手控えていく、そういうふうに、やはり人生は固める時期がだいじです。 12.人間として生まれたことの幸運に気づけ 運というのはね、運命というのはみなさん、そういうふうにね、うまーくね、準備期間と潮時(しおどき)あるいは春夏秋冬というのをじゅうぶんに考えながらコントロールせねばいかんのです。これはひとつの法則なんだから。この法則からはずれないように、しっかりとおさえていかねばいかんです。 そしてね、まあ先ほど動物たちの話いっぱいしましたけれども、ああいうふうな、いろんな動物たちを見ながら、もう一度ね、自分の運というものを考えてほしいんですよ。 ムカデに生まれなかったということの運の良さ、ウサギに生まれなかったことの運の良さ、カエルは水の中に入っても風邪はひかんでしょうけど、やはり風邪をひいてベンザでもいいし、朝鮮ニンジンでもいいけれども、そういうものを飲んで風邪治(なお)したいと思ってね、夜の七時から寝ているような苦しい人間もおるけれども、そういう人でも、やはり風邪ひいてでもね、まあカエルよりはいいでしょう。カエルは服着ませんよってね。カエルが服着たらね、それは、お笑いになっちゃいますよ。 そういうことでね、人間に生まれたこと自体がひとつひじょうに運がいいんだからね。自分が運がいいとか悪いとかいわずにね、先ほどいったような神様が創られたいろんな動物、蛇とか猫とか犬とかライオンとか、そういうものに生まれたら、どうなるだろうなあと考えながら、「ああ人間に生まれてラッキーだったね。」ってね。「運がいいね。」と考えていただきたいんです。 もともと僕たちは、もうね、なんとか占星術によれば、持って生まれた星がいいとか悪いとかいうけど「やはり人間に生まれただけでもいい星のもとに生まれたね。」って。そういう気持ちを持たねばいけません。 13.運命を超えるとは、人生の周期をよく見ながら、ひとつひとつレンガを積み上げていくこと まず自分が幸福なんだと思って、幸福だけども、この幸福を確かなものにしていくためにはね、人生のいろんな周期というものを見ながら、賢く立ちまわっていかねばいかんということをね、忘れちゃあいけません。まあそういうことです。 まず幸福な存在だということに気づいて、運がいいということからスタートしながらね、その運の中味をうまーく運転していく。これが人生の秘訣なんです。こうすることがね、きょうの演題である「運命を超えて」ってことなのですね。 運命を超えるっていうのはね、自分の因縁を切るとか、たちまちこの身このまま悟って即身成仏(そくしんじょうぶつ)、即身解脱(げだつ)して、光の大指導霊になるわけではないんです。 そういうふうに人間的にあくまでもね、ひとつひとつ努力しながらレンガを積みあげていくように自分の運命を築いていきなさい。それがだいじなことですよ。 ま、いろいろといろんな話しましたけれども、まあきょうの私の話は、そういうことです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/270.html
目次 1.最高の自己実現としての霊訓集の刊行 2.宗教家の使命①――多くのひとびとを救うこと 3.宗教家の使命②――多くのひとびとを教えること 4.宗教家の使命③――後のひとびとへの遺産をのこすこと 5.高橋信次の遺産――心の教え 6.「精神」、「心」、「魂」、という言葉の響きのちがい 7.心の探究こそほんものの科学である 8.スペース・シャトルと孫悟空 9.科学者や医学者への警告 10.宗教のなかのほんものの遺産に気づけ (1987年3月23日の霊示) 1.最高の自己実現としての霊訓集の刊行 高橋信次です。つぎに第二章「未来への遺産」という題で、話をしていきたいと思います。 まあ、この二章はもう二月にとっくにおわっている予定だったんですけれども、講演会だ、研修会だといろいろ忙しくてね。だんだん私の出番が遠ざかってきて、みなさんきょうはなんともう三月の二十三日です。 東京では桜がさき始めました。一ヵ月遅れの講義です。どれだけ私が軽視されているか、よーくわかると思いますね。 霊ってものもね、公平なとりあつかいがほしいんですよ。 古い霊がね、ものすごくたいせつにされてね、新しい霊っていうのはひじょうに迫害を受けておるのですね。虐待ですね。新しい霊っていうのはね、まあどうでもいいやというわけですね。 古くなると値打ちが出てくる、年代ものだったら値打ちが出るけれども、新しい霊はまだ値打ちが出てこないからね。まあワインといっしょですよ。 ボルドーワインなんかね、仕込んでね、「それ何年ものですか。」ってね。「いや、GLAで詰めたところの十一年ものですよ。」なんていったら、「あ、まだダメ。まだ味が出てない。もうちょっと百年ぐらいただないと。龍馬さんだって、もう百年たっとるんだから、百年はたたねばダメですよ。」なんてね、言う人もいるでしょう。まあそうかも知れません。 生きているときには、死ぬまぎわでないと人間、文化勲章もらえないし、文化勲章もらって死んでもね、それが高校生のね、教科書に載るようになるまでにはね、まあ何十年もかかります。 ですから谷口雅春先生だとか、高橋信次、まあ先生つくかどうか知らないけどね。高橋信次なんていうのも、まああと何十年かすればね、たぶん教科書かなにかに載ると私は思ってるのですよ。 社会科かなんかでね。日本の昭和期の第三次宗教ブームと宗教改革をやった偉大な先達(せんだち)ということでね、まあやがては出ると思うけど、まだ値打ちが定まっていない。だからまだふわふわとこの地上を浮遊しているように思われておるのですね。これは残念なところです。 まあ私の霊訓集も進めていくうちにね、やがて「高橋信次も、そうまんざらでもないな。」ということになってくると思います。それが私の願いでもあるし、生前果たせなかった望みでもあります。 またこの霊訓集を通して、まあGLAの混乱を収拾するとともに、かつて私の教えの縁を受けたかたがた、あるいは私の教えをいままで受けてなくともね、この霊訓集を初めて手にして、新たな世界、未知の世界をかい間見る人たち、そういう人たちにね、教えていきたいんですよ。 そして私が語っていることがね、現代の人だけじゃなくて、百年、二百年、あるいは五百年、千年ね、日本という国がなくなってもね、いろんな国で、読まれ続けていくということをね、私は希望しているんです。 そういうことで、こういうふうに霊訓を送るということは、あの世の霊である私たちにとっては、最高の自己実現なわけです。 2.宗教家の使命①――多くのひとびとを救うこと さてきょうの本題は、未来への遺産ということでね、私なりにない知恵を絞りまして、未来への遺産について、講義を続けていきたいと思います。 まずね、宗教家ということで、話を絞っていきたいと思いますけれども、地上に降りた宗教家の使命には、大きくいって三つあるんです。 第一の使命というのはね、これはまあ、地上にいるひとびと、できるだけ多くのひとびとを救うということですね。これが第一義的な使命なんです。 3.宗教家の使命②――多くのひとびとを教えること 第二の使命っていうのはなにかっていうとね、これは、「救う」のつぎはね、「教える」ということなんですね。 とりあえず第一段階目は「救う」、ようするに迷っておるひとびと、苦しんでおるひとびと、悩んでおるひとびとをひき上げる。ようするに幸せの世界へつれてくるというのもだいじだけれども、第二は「教える」。 つまり教師としての役割ですね。これは知識的な面がそうとういります。真実のものを教えるということです。 地上の学問というのがあるけれども、学問というのはたいていがね、人の本を読んで、また引用して書いておるような本が、ほとんどだし、本を読まない人たちでも結局、実験ということでね、いろんな薬剤を使ったり、あるいは石を破壊したり、山を掘ったり、海にもぐったりして探検したり、調べたりしている学問がほとんどですね。 こういう実験、調査による学問と、人間が書いた物を、ようするに勉強することによってまた書くというようなね、そういうのが学問でしょう。 ただその学問であれば、どうしてもね、人間知といいますかね、狭い判断に押し込まれてしまうから、それ以上のものにならないんです。 そういうわけでときおり、ほんとうの宗教家が出てきてね、ほんとうの教えを広めていく。 真実の神の世界を教えて、この世の成り立ち、しくみを教える。こういうことによって、知識のね、洗い替えというのをやりますね。 つまり教えということ、ほんとうの教えということがなにかということをまあ教えるわけです。そういう意味で学問の基礎になるようなもんでもあるし、新たな科学でもあると思いますね。 4.宗教家の使命③――後のひとびとへの遺産をのこすこと 三番目はね、これが、後のひとびとへの遺産ということなんですね。 たとえばイエス様という人の遺産を考えてほしいんです。 イエス様の生命は、わずか三十三年で終っとるんですね。ナザレという地で教えた期間は三年、そして十二弟子を初めとして、教えた人たちはまあ数千人はいたでしょう。 まだイエス様をもってしてもそんなものでありました。四千人とか七千人の人たちだったと思います。 ところがそのイエスのわずか数千人に教えたというのが、その後二千年の長きにわたって連綿と残ってきたわけです。この二千年の間にイエスの教えに触れた人はいったい何人いたでしょうかね、数えきれないです。 現代の人でも十億人、二十億人の人が、少なくともキリスト教のなんらかの影響を受けています。その教えに触れています。 ましてや過去二千年間といったらたいへんなものです。そういう偉大な財産家なわけですね。遺産というのを後の世に残した。 ブッダがまたそうです。二千五百年の後に、偉大な遺産を残しています。 仏教だって葬式仏教だとか、なんだとか悪口いわれますけれどもね、あるいは観光仏教だとか、金儲け仏教だとかいわれるけれども、しかしね、いい意味もあるんですよ。仏教がなきゃあ、日本人なんて死後の世界なんて考えないんです、まったく。考えないんですよ。 だから葬式仏教といって仏教も馬鹿にされるけれども、葬式があることによってね、ようするに死というもの、あの世というものを考えない人間はひとりもいないんですよ。 なぜなら、人間がかならず死ぬからです。自分の父親、母親がかならず死んじゃうんです。たいていの場合自分より先に。 その前には、じいちゃん、ばあちゃんも死ぬんです。兄弟も死にます。まあ子供が死ぬこともあります。 肉親の死ということを生きている間に経験しない人はひとりもいないんです。どんな人でもかならず経験するんです。 そして、そのときに坊さんが来ます。葬式をし、焼き場へ行き、そして野辺の送りですか、それをして、お墓に入れますね。無神論者であろうが、あの世を信じていなかろうが、これみんなやっとるわけですね。 おれは無神論者で魂なんか信じていないから、葬式必要ないっていう人、いるかいないか、ひとりもいないです。ひとりもいないです。みんな葬式必要です。認めておるわけですね。 だから朝日新聞だとか、読売新聞だとかで世論調査をして、そしてあの世を信じている人は何割いるとか、やっていますね。なんとなくそういうものがあるらしいというのは五割だとか、あの世の世界を確信しているのが一割とか、二割とかいうけどもね。 それは答えとしてマルかバツかをつけるからそうなんであって、ほんとうの内心といったらね、ゼロの人はいないんです。まったく信じていない人も、まったく信じきっている人も、まあどっちもいないって言っていいでしょう。 ある程度、その心のなかで、段階差があるわけですね。一割ぐらいは信じている。三割あるいは五割信じている。八割信じている。九割九分信じている。まあこういう人がほとんどです。 まあそれは直接私たちと話している人はね、それはもう十割信じていますよ、あの世の存在をね。 ただ信仰深い人であってもね、自分が体験していないことはね、やっぱり百パーセントは信じられんのです。九分九厘あると思っても、残りの一厘はね、やっぱり体験していないから、やっぱり疑問が残るんです、どうしても。 そういうふうに完全に信じる人も、完全に信じない人もいないんでね、そういう意味で、仏教というのが現代に名残りをとどめていることも、また意味があるわけなんです。 まあ、あとたとえばモーゼの教えなんてのがあります。もう三千二百年たちました。さすがにモーゼの教えで教われる人は、ちょっといないかもしれない。 ただね、モーゼという人がいたことによってね、イエス・キリストという人が浮きぼりにされたという意味合いが強いのです。あの人があって、モーゼの律法というのが、もうずいぶん塵や垢にまみれて、それを払いに出ていたのがイエスだったわけですね。新しい教えを。 そういうことで旧勢力のモーゼの教えを、信じた人との戦いということが、彼の人生のドラマになってしまったけれども、それもまたひとつの演出であったということも事実なんですね。 だからモーゼなくしてのイエスはなかったわけであります。 そうしたもんで、遺産というものは確実にね、めぐってくるんですよ。ただそれはそう長く続くものではありません。 じゃムー大陸のときの遺産というのが残っているかというとね、そりゃあもう数少ないもんです。大陸自体がもう沈んでしまいましたね。 ムー大陸の遺産で現代残っているとすれば、それはひとびとの転生輪廻の過程における魂のなかのかすかな記憶、まあ、これぐらいだし、ムー大陸に栄えた神理、正法としては、まあ太陽信仰でしょうかね、そういうものが残ったでしょう。 ですから古代日本の神道の太陽信仰、天照信仰も、これは元をたどれば、もちろんムー大陸から来ている信仰でもあるわけですね。こういうものとしては残りました。 アトランティスもそうですね。大陸が没してしまった。そして優秀な人たちがみんな沈んでしまいましたね。 けれどもアトランティスの遺産の一部は、エジプトという地にね、流れていって、エジプトでまた新たな文明のもとになりましたね。ピラミッド文明、あるいは魂の科学、こうした元になったのは事実です。 そういうようにいろんなかたちでね、いろんな地域に出た教えというのが遺産として残っていくということは、これはすばらしいことなんですよ。 ですから、私たちの教えもね、またこの三番目の遺産という面を無視しては、成り立たんわけなんです。 5.高橋信次の遺産――心の教え そこでこの遺産ということに焦点を絞ってね、さらに話をしていきたいと思います。 たとえば高橋信次の遺産はなんだろうか。八起ビル、まあ、そりゃあ、そうかもわかんないね。 ハ起ビル、いま、ちょっとうまくいってないけれどもね、使われていないけれども、いちおうビルは建てたから八起ビルは遺産でしょう。実家、それはそうですよ、家だって遺産でしょう。 嫁さん、これは遺産とは言えないかもわかんないね。でも子供は、これは遺産だろうね。子供ができました。ふたりできましたね。これは遺産です。 その子供を介してまたなにか後の世に残すこともあるでしょう。これも遺産でしょうね。これは人間としての遺産です。 けれどもね、私の遺産の最大のものはなにかというと、やはり心の教えだったと思うのですね。私が一生かけて、研究し、探究し、発表してきたものは、人間の心の偉大性です。 人間はね、心、心と言われながらその心をついつい忘れてしまうんですね。忘れちゃうんです。そしてラブレターなんか出してね、断られたときだけ心が痛いとかね、痛むとか、あるいは、演歌だとか、ニューミュージック、こういう世界のなかで、心がどうのこうのと歌を歌ってます。 たとえば、みんな考えているのは、シャボン玉みたいに飛んでいくぐらいの心しか、持っていないのですね。じゃあなたの心ってなんですか、と言ったときに、その心がなにかということが言えんのですね、そうかんたんには。これは漠然としているもんなのです。ふつうはね。 いや、知らなくてもすむんですね。心、心と言っておけば、魂って言ったら信じないけれども、心と言ったら信じちゃうですね。 いまね、国民調査でもなんでもいいけど、アンケート用紙配ってね、聞いてごらんなさいよ。 あなたは魂を信じますかって言ったら、信じないっていう人のほうがふえてくる。 あなたは心の存在を信じますかって言ったらね、信じるという人がほとんどですよ。 あるいは、あなたは人間に精神というのがあると思いますか、と言ったらね、それはあると思いますよ。マルをつける人ばかりですよ。言葉のちがいなんですよ。 どれだけ言葉というものにね、イメージが付着しているかみなさんこれを考えにゃあいかん。 6.「精神」、「心」、「魂」、という言葉の響きのちがい 精神ということをはっきり言い始めたのは、近代哲学の祖といわれた、デカルトです。デカルトが精神と肉体、物質というような、こういう明確な二元論というものを打ち出しました。それ以降この考えかたというのは主流になりました。で、精神というのが独立して、ひとり歩きしました。 そしてカントなんかも、この精神というのを徹底的に勉強したわけですね。精神というのはなんだってね、『純粋理性批判』だとか、『判断力批判』だとかね、『道徳論批判』だとか、こういうのをいっぱい出してね、精神ってなにかを徹底的に探究したのがカントです。 そういうとわかるんだね。精神というと、なんとなくりっぱでしょう。カントの教えとかね、カントが勉強したことといえば「いやあ、すごいなあ。」ということになる。 あるいはヘーゲルです。まあこれもすごい哲学者ですね。ヘーゲルっていう人はギリシャ時代の大哲学者プラトンの生まれ変わりです。 このヘーゲルも『精神現象学』であるとか、あるいは『歴史哲学』であるとかね、こういうすごいむずかしい、大著をいっぱい書いています。大大著(だいたいちょ)をね。 高橋信次が読んでもわかりません。わかんないから向こうが偉いかというと、そんなことはないんですよ。そんなことはないんだけど、いちおう読んでもわかりません。 あの世にも本があるけど、ときどき読むんだけどさっぱりわかんない。わかんないし、言いわけ言わしてもらえばね、「こんなもんで心の糧になるもんか。」と私は思うんだけども、まあそれでも精神を究明したんだそうです。 私はやはり宗教家としての魂だから、ひとびとにわからんことを言って、それでなんの糧になるかと思うんだけど、まあそれはそれでね、学問的には意味があるそうです。 だからみんなカントだとか、ヘーゲルだとか、いやあすごいなあと思うでしょう。それをつまらんと思う人いますか、ひとりでも。みんな、すごいなあ、偉いなあ、と思うでしょう。 だから現代でカントがおれば、いやあ、これは偉い人だ、ヘーゲルがおればすごい天才だと、尊敬しちゃうでしょう。高橋信次が出てたら、「あ、これはオカルト宗教の教祖だ。」こうなっちゃうんですね。 言っている中味はどうですか。 彼らは「精神」ということを探究し、私は「心」という名前で、あるいは「魂」ということに関して、探究しましたけれども、いっしょのことなんですよ。 ただ精神としてね、精神学として勉強したものというのは、若干思弁的で抽象的です。 7.心の探究こそほんものの科学である ところが私が探究した心の解明というのは具体的なところがあります。抽象的な心だけではなくてね、じっさいにある、実在界の心、あるいは魂のしくみというものを、はっきりと教えたわけですね。 その意味では、私たち宗教家というのは科学者でもあるわけなんです。たんなる理論だけじゃなくて、実験というのがそなわっているのですね。 ところがね、なんというのかね、実験というのをようするに無視しちゃって、理論だけをありがたがる風潮なのです。西洋の風潮、いまの風潮は。 だから哲学やって、ああいうふうに理論だけ言うとね、それでありがたがるところが現実に死というものをとらえてね、魂とか心とかいうものを探究した私たちっていうと、そしたら見くだすわけですね。 つまらん宗教家、またオカルト宗教家、新興宗教家、「また高橋さんのあの口ですか。」と、こういう考えかたになるわけです。 こういう人たちはほんとうのものの見かたを知らない。哲学者が理論だけでやったことを、私たちは理論だけじゃなくてね、実験としても、実地で調査して、探究してきたんです。フィールド・ワークしたわけなんです。 地球は丸いんだと理論的に説明するんじゃなくてね、実際に丸いことを、船に乗って地球を一周して、証明して見せたんです。そして、そのゴールまで行きつくことについてね、証明したんですよ。 だからね、現代の科学が科学って銘打っているのは、あれはにせ物です。なぜなら、ほんとうの世界を探究しようとせんからです。 ほんとうの世界のことをぜんぜん探究しないで、それは宗教だなんだ、というんで、ほっぽらかしちゃって、自分たちは試験管ふったりね、顕微鏡をのぞいたり、天体望遠鏡をのぞいたりして、それで満足している。 じゃあもっと広い世界のことをなんで知ろうとせんか、この三次元を超えた、四次元以降の世界をね、どうして知ろうとしないのか、四次元以降の世界、魂の世界、心の世界を探究せずして、科学という名前を冠するのは、これはごう慢であります。 ですから現代の、科学するという科学者たちは、みんなごう慢でありました、と反省して、頭を丸坊主にして、もう一回一列に並びなさい。 そしたら私が精神棒を持ってきて、その坊主の頭をポンポンポンとみんな叩いてやって、「しっかりせんか、おまえたち気合いが抜けておるぞ。」と。 「それで科学者といえるか、ノーベル賞なんかもらっちゃってね、それでなにがわかっとるんだ。」と。 「人間の魂を知っとるんか。」「知らん。」「知らんでよくノーベル賞もらってね、偉そうに言うとるな、お前は。」 人間はね、物理学がすべてだとかね、化学がすべてだとか、こんなバカなことをいってね、ノーベル賞もらって、胸にぶらさげて喜んでおる。ほんとうの世界のことを知らんで科学者と言えるか、恥を知りなさい。 科学者というのは、疑問の探究、追究です。これが科学者の姿勢なのです。未知なるものをつねに解明してやまぬというのが、これが科学者のありかたなんですよ。 その探究する姿勢を忘れて、この世だけがすべてだとして、この世のものばっかりをさぐっとって、そしてあの世のことはオカルトだと思ってね、そんなこと信じとったらはずかしい、と思ってたら、その心こそよっぽどはずかしい。 現代科学者の大部分は、あの世に来てみんな恥いっとるのです。自分たちが唯物論のまっただなかにいてね、唯物論に奉仕してきたことを、はずかしい思いをしていますよ、みんな。 スペース・シャトルだとかね、超音速旅客機が飛んでね、「やあ、これで科学万能の時代になった。」なんて喜んでおる人は、あの世に来て、ひっくり返るんですよ。 あの世のすごさを見て、あなた旅客機なんかいらんのです。スペース・シャトルなんかいらんのですよ。思ったら瞬間、月でも太陽でもね、木星でも、金星でもね、あなたね、銀河系の果てまでもね、飛んでいけるのですよ、あっという間に。 スペース・シャトルなんか、あんなまどろっこしいものじゃないんですよ。こっぱみじんに爆発するようなものが、あんなもんがなんの科学ですか。 高橋信次なんかね、一瞬で、一秒で、あなた銀河系の果てまで行くんですよ。 8.スペース・シャトルと孫悟空 だから現代のスペース・シャトルなんていうのは、昔の孫悟空の話といっしょです。 孫悟空は觔斗雲(きんとうん)に乗ってね、お釈迦様とけんかしちゃって「なーにおれの力、知らんなんてね、ヨーシ、なら宇宙の果てまで飛んでやる。」と言って、觔斗雲(きんとうん)に乗っちゃってね、如意棒かなんかニューッと伸ばしちゃってね。 「どれひとっ走り行くか。」って言って、ビューと飛んで、飛んで、飛んで無限のかなたまで行って、宇宙の果てまで行って、「ああ宇宙の果てまで来た、やった。」と思ったら、目の前に柱が五本立っとった。 「よーし、せっかく宇宙の果てまで行ったんだから、証拠残さんといかん。」というので、その宇宙の果ての柱に、おしっこかけてね、ピューと真中の柱かなにかにおしっこかけちゃって「ああ、すっきりした。ああ、緊張したからね、長旅だったから疲れたわ。」と言ってね。「よっし、これで帰ろう、証拠もできたし。」 まあ南極探検かなにかで、日本の旗立てて帰ってきたようなもんだ。おしっこかけちゃって、それで帰ってきた。 そしてお釈迦さんのところに帰ってきてね、「お釈迦さんどうだい。おれは宇宙の果てまで行ってきたぞ。おめえなんか行けねえだろう。大きなズウ体しちゃってね。それで歩いて行ったって、とてもじゃないけど行けないぞ。おれの觔斗雲(きんとうん)ていうのは、もうマッハいくらじゃないけど、マッ八十五ぐらいで飛ぶんだぞ。宇宙の果てまであっという間だ。どうだい。」って胸張ったら、お釈迦様は手を開いて、「おまえのいう宇宙の果てというのはこれかい。」ってね。右手を広げました。 そしたら中指の下がチョロチョロぬれてるのですね、おしっこで。 「あれまあその匂いは、まさしく猿の匂い。私のおしっこじゃないですか。」ってね。孫悟空が言います。 お釈迦様はニコニコ笑っている。 「そうかおまえの宇宙の果てというのは、わしの手のなかのことか、これはたいへんな宇宙の果てじゃのう。」と、こういうことを言いましたね。ここに境地の差があるわけです。 9.科学者や医学者への警告 ほんとうの世界を知った高級神霊からみれば、科学ってのは幼稚な段階なんですよ。まだヨーヨーをぶら下げとる段階なのです。これで慢心してはならん。 これですべてがわかったと思う科学者は、そっこく、丸坊主にしてそして一列に並びなさい。 そしたらね、みんなの頭、パシッパシッパシツって片っ端から叩いていってやりたいです。このように科学者は、まったくだらしないです。 医学者もだらしない。医学も西洋医学ばっかりやっちゃって、医学のね、根本にあるものを忘れとる。人間の魂を知らんで、なんで人が救えるのか。生命の実相を知らずして、どうして病気が治るのか。これをもっともっと勉強せねばいかん。 人間が物質の寄せ集めだと思って、なんでそれで人が救えますか。アフターケアーを言うなら死んだあとのことまで考えて、病院でちゃんと治療しなさい。こういう治療したら、この人は死んであの世に帰ったらどうなるか、よーく考えてやんなさい。それがだいじですよ。 あなた、この世で、ようするになんでもいいから、植物人間でもなんでもいいから、だいじにすればいいというもんじゃないですよ。もう一回ね、霊的な観点から見なきゃいかんのです。 心臓移植だってそうですよ。心臓移植したってすぐ死んじゃうでしょう。臓器の移植したってすぐ死んじゃうでしょう。なぜ死ぬか知っていますか。 それはね、人間の細胞のなかにもそういう臓器のなかにも生命があるんですよ。その生命というのは、持主の波長と合っとるんです。波長がね、同じ波長なんですよ。 それをいきなりボコッと抜いてね、他人様の体のなかに植えつけたって波長が合わんのです。 まずね、その臓器にたいして、「おまえ、ご苦労であったけれども、おまえの主人は亡くなったんだ。」と。「主人は亡くなったんだから、そして人間は肉体じゃなくて、霊なんだから迷わず成仏するであろう。」と。 「ただ心臓としてのおまえはまだ生きているのだから、どうかまだお役にたちなさい。」そういうことで、よく言い聞かして、そして新しい人間の体に植えるときにも、その人間に言い聞かしてね、「あなたも感謝の気持ちを持ちなさい、人間は魂でね、あなたの魂はこれを拒否するかもしれないけれども、ありがたいことなんだからありがたく受けなさい。」そういう感謝の心、大調和の心なくしてね、そしてそういう臓器を移植したって失敗するのです。このことを知らねばならぬ。 こんなこと知らないで外科手術ばっかりやっておる人いっぱいいるんです。いつまでやったって実験です。モルモット以外のなにものでもありません。 だからとくに科学者、医学者、いくら勉強できて、東大の医学部受かったってダメなんです。共通一次で一番取ったってダメなんです。そんなんでなにもわかっとらんのです。 みなさんね、ほんとうに探究しなければいかん。 私はそういうことを、心の探究、科学者としての立場で、心を探究するということはどういうことか。これはね、カントやね、言っておくけれども、自慢じゃないが、カントやヘーゲル以上のことをやっているんです、私は。 それが私の遺産なんです。 10.宗教のなかのほんものの遺産に気づけ 地球のみなさんは、あるいは地上のみなさんは、もうちょっと「宗教」だからとかね、そういう先入観を捨ててね、ほんとうにその中身、教えの中身というのをね、しっかりと勉強してみてください。 そのときに私たちの遺産が光ってくるんです。生きてくるんです。亡くなった者たちの意志を継いでください。私の人生を無駄にしないでください。私が説いた教えというものをもう一回ね、しっかり学んでください。きょうはほんとうに長い間ありがとう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/259.html
目次 1.GLAで生前釈迦仏教の復活を目指した高橋信次 2.著書『人間・釈迦』で語りたかったこと 3.三世を見通す力で釈迦の人間としての苦しみを知る 4.釈迦の出家と六年間の修行 5.人間の生命体の偉大さについての悟り 6.「本来肉体なし」の悟り 7.霊子による物質の形成 8.普遍の実体としての人間の発見 9.永遠の生命としての人間の修行は、物質への執着を去ること 10.執着を去るための八正道という反省の基準 11.正しく念ずる、正しく定に入る、ということ 12.釈迦教団にはいるときの厳しさが現代の新興宗教にあるか 13.有名人で人集めする宗教はまちがっている (1987年1月27日の霊示) 1.GLAで生前釈迦仏教の復活を目指した高橋信次 今日は、甦る仏教という題でお話しすることになっておるんで、これは時間もかかりそうですから、さっそく本題に入っていきたいと思います。 私は、生前ということになるんでしょうけれども、昭和四十年代ですね、主として四十年代前半から昭和五十一年まで、GLAという団体の中でいろんな教えを説いてきましたけれども、その教えの中心になったのはいったいなんであるかっていうと、やはり釈迦仏教であったわけですね。とくに釈迦仏教の八正道の復活ということを中心に主として七年あるいは八年でしょうかね、話をしてきました。 そういうことで、GLAでかつて私の教えを受けた者、また現時点でまた私の著書を読み続けておる者も、高橋信次というと、仏教の現代的意義を説いた人というイメージが大きいだろうと思います。 まあじっさいね、思想的にも私の考えは、ブッダの考え方に近かったということもあるんですけれども、たしかに生前は、仏教の復活を中心に説いてきました。 そしてようやく仏教を説き終えて、キリスト教の塵(ちり)、垢(あか)を落とそうとし始めたときに、まあ天寿が来ましてね、わずか四十八歳で天寿をまっとうしました。 これはよっぽど前世のさだめが悪かったんでしょうね。まあふつうの人からみれば働き盛りのころに、もうお前はよく働いたから、もう二倍、三倍働いたから、もういいよとね、もう許してやるといわれて、ああそうですか、うれしいってなもんでね、還ったわけです。 そういうことで、ほんとうはブッダの仏教の本来の意義というのを明らかにした上で、こんどはイエス様の愛の教えのほうですね、これの本義を明らかにしようと思ったところだったのです。ちょうどそのころ私は地上を去ることになり、こんどはまあバトン・タッチということになったわけです。 2.著書『人間・釈迦』で語りたかったこと じっさい私にも『人間・釈迦』という本がありまして、これもいま、第一巻から第四巻まで出ています。未完ということになってましてね。著者他界により未完とか書いてありますね。本にね。著者他界のため未完とか、絶筆になったとか、いろいろいわれているけど淋しいですね。 いま書いてもいいのだけれど、私がいま『人間・釈迦』の続きを書いても、三宝出版でたぶん出してくれないんじゃないかと思うんでね。三宝出版がこの霊言集を読んで『人間・釈迦』の続きを出したいと言ってきたら、五巻、六巻書いてもいいのだけれども、まあそういう依頼が来ても忙しいから嫌だとか言ってね、逃げちゃうかもしれませんけど。それはわかりませんけどね。まあこれは冗談です。 さて『人間・釈迦』のなかでは釈迦が出家するまでのこと、また出家して成道(じょうどう)、まあ道にはいるまで。 そして最初の悟りを開いて、五人の阿羅漢(あらはん)たちと出会って、やがて初転法輪(しょてんほうりん)ということで、法輪がだんだん回転し始めて、法が広がっていく姿。それから釈迦弟子たちがだんだん集まって、サンガーの生活、つまり僧院ですね、それが始まったころの話。 それからまあ釈迦がね、三宝に帰依(きえ)するかということで弟子を絞ったということ。三宝とはつまり、ブッダに帰依するか、ブッダのタルマ(法)に帰依するか、あるいはサンガーすなわちブッダ教団だね、教団に帰依するかと、この三つのことを問うたこと。 まあそしてだんだん教えが広まっていくさま。まあこういうのを書きました。 そしてまあ、釈迦の弟子たちのいろんな出会いとか、事件とか、そういうことを中心に物語を進めてきたところでね。まだ釈迦の涅槃(ねはん)までいく前に、私のほうが涅槃になっちゃって、書けなくなったんですよね。 そういうことで四巻でおわっており、高橋信次の涅槃により絶筆となりました。しかし、それ以後の釈迦の入寂(にゅうじゃく)までの話は、おそらくまたなにかの機会に書かれると思います。 けれどもま、とりあえずね、あの四巻を遺したことによって、仏教の当時のあり方というのがひじょうによくわかったというかたが多いんですね。ひじょうにあれでよくわかりましたと。 まあ仏典というのもむずかしくなって、漢語ですね、中国語の教典があって、それを読む。それの日本語訳を読んでもよくわからない。あるいは原典ですね。原典でむずかしいインドの言葉で翻訳している学者もいるけれども、どうもわかんないと。 そしておおまかな傾向としては、釈迦の教えというのがどうも思想的にとらえられているのですね。 あの世の話なんてじっさいのことじゃなくて思想としてそういうものがあるんだと、そういう感じになっていますね。 とらえ方がひじょうに抽象的です。まあ釈迦の八正道なんていうのはもう現代では抽象論になってしまって、ひとつの思想すなわち、道徳的な思想というふうな感じで、とらえられているむきがあります。 これにたいして敢然(かんぜん)として立ち上がったのが高橋信次だったわけです。まあ自分でいうのもあれですけれどもね。 釈迦のほんとうの教えっていうのはそんなもんじゃない。ほんとうにひとびとを生かすための言葉であり、またじっさいに力があった教えであるのであって、そんな抽象的な思想の産物ではない。 また人間の知と意によって歪(ゆが)められた、そうした難解なお経のようなものじゃないんだと。 そういうもんじゃなくて、ほんとうは生命の息吹がこもった教えであって、そしてその教えによって多くの人たちの姿勢が百八十度の転換をみて、そして多くの人たちが悟り、解脱(げだつ)し、幸せになっていったのが、ほんとうの釈迦教団であったんだ。釈迦の教えだったんだと。 まあそういうことを私はあの本のなかで説いたわけですね。 3.三世を見通す力で釈迦の人間としての苦しみを知る じっさい私はみなさんご存じのように霊能者でもあったし、三世を見通す力も持っていました。 まあときどきはずれましたが、三世を見通す力を持っておって過去、現在、未来を見通すということにまあ、なっとったわけですね。 じっさい見通しとったわけで、まあたまに誤解もあったけれども、まあだいたいわかったわけです。 それで『人間・釈迦』を書くにあたっても、なんの参考文献も私は用いておりません。むずかしい仏典なんかなにも読んだことがないのです。 そうじゃなくて、いま流にいえばじっと精神統一して、薄く目を閉じてね、精神を統一すると、当時のつまり、二千数百年前の釈迦の考え、あるいは教え、あるいは弟子たちの様子っていうのが手に取るようにわかったわけですね。 眼前に広がってくる。パノラマのように広がってきて、そうして当時の釈迦の言葉っていうのがひとつひとつ響いてくるのですね。 しかも弟子たちの心の中まで手に取るようにわかりました。まあこういうのを三世を見通す力というんです。 こういうふうに過去、何千年前の過去でもあたかも現在をみるように手にとるようにわかってしまう。こういう能力があります。 これにもとづいて第四巻まで書いてきたんですね。それでまあ多くの仏教学者たちからも反響がありました。 「いや釈迦の本当の教えってぜんぜんわかんなかったけれども、あんたの本を読んでよくわかった。」 「まあ高橋さんというのはひじょうに頭がいいのか悪いのか知らないけれど、幼稚な文章を一生懸命書いてくれるので、私のような大学者から見ればすぐわかるような文章で、ああわかりやすかった。」なんてね。ずいぶん感謝していただきました。 それと逆に「釈迦の教えってこんなていどだったんですか。もっとむずかしくなかったの、ほんとうは。」まあそういう人もいました。まあいろいろです。 ただ私があのなかでやはり教えたかったのは、人間釈迦ということでね、釈迦というのは肉体を持ったひとりの優れた人間であってね、人間としての属性を持ち、人間としてのさまざまな悩みを持ちながら、そのなかで葛藤しながら、悟っていき、教えを広げていった人間であったということを説きたかったんですね。 もちろんあの世の世界では、偉大な光の指導霊というのは一般の人たちとははるかにへだたった遠い世界に住んでいますけれども、そういう光の大指導霊であっても、地上に肉を持ったときにはやはり風邪をひいたりね、やっぱりお腹がすいたり、人間関係で葛藤したり、そういう悩みや苦しみがやはりあるのです。 その悩みや苦しみのなかで、普通の人間と同じように葛藤しながらも、なにか、そこでちがう面があるのです。そのなにがちがうかということをみなさんに教えたかったんですね。 まあお釈迦様と高橋信次とをいっしょにするわけにはいきませんけれども、高橋信次という人間も、やはり苦しみやさまざまな葛藤がありました。そのなかで自分自身悟っていき、またその教えをひとびとに説いてきたのです。 ですから私の生き方というのは、まさしくね、釈迦じゃありませんが、現代において、悟りとはなにか、教えとはなにかという求道者のあり方を復活するための一生だったと思います。 4.釈迦の出家と六年間の修行 さて「甦る仏教」という題ですから、「甦る高橋信次」の話ばかりしてたんじゃ読者が怒っちゃうでしょうから、仏教の話をもう少ししていこうと思います。 じゃあお釈迦様がね、いまから二千五、六百年前にいったいほんとうに説きたかった教えとはなんだったかと。まあこれを言わにゃいかんと思います。 釈迦は出家してカピラ城から出てきて、そしてひとりで山のなかにこもります。そしてまあ当時の修行の主流ですけれども、山のなかで禅定して、なんとかして悟りたいと六年間の苦行をしたわけです。洞窟のなかで修行したこともあります。 そして釈迦が出家してまもなく、お父さんである王様から、五人の護衛が送られて、そういう人たちが陰になり日向(ひなた)になって釈尊を護っとったけれども、彼らもいつしか、護衛という役割を忘れて、釈尊の弟子になっちゃいましたね。 彼があまり真剣に道を求めているので、自分たちもついついその道にはいってしまって、もう抜けだせなくなってくる。そういうことで最後には釈尊が、村娘からミルクをもらって飲んだりしたら、「あ、堕落した。」なんて怒るところまで彼らがんばって修行しました。そういうふうになりましたね。 この初期の釈迦の六年間の苦行ですね。この姿が残っておるのは、現代でいえばやはり坐禅であるし、あるいはある意味では密教の一派に流れているのもそうであったろうと思うんですね。それらは釈迦が悟るまでの修行の姿だったわけです。 さて、それでまあ六年、二十九歳のとき出家して六年、まあ三十五、六歳になりましたでしょうかね。 これからあとは有名な話でね。釈迦は大きなピパラの木の下で、一週間反省的瞑想をしておったときに宇宙即我(うちゅうそくわれ)を体験して、それで悟りを開いたということになっていますね。 5.人間の生命体の偉大さについての悟り そこで釈迦の悟りの内容はいったいなんだったのかを話しましょう。まあ宇宙即我は別にしてその考えを述べたいと思うのです。 彼が悟った内容は、けっきょくこういうことなんですね。人間というのは本来肉体のなかに住んでおる者じゃなくて、もちろん永遠の転生輪廻をくり返しておる偉大な、魂であるんだと。 すなわち、あの世の実在界にある生命体というのが人間のほんとうの姿であって、その偉大な生命体は、実は、神の一部であり、神の生命そのものであるのだ。 その神の生命そのものである偉大な人間の生命体というのは、母の胎内に宿って、そして赤ん坊として生まれてきたときに自分の潜在意識、すなわち過去世の記憶、あるいは守護・指導霊たちのこと、こういうのをすべて忘れ去ってしまうのだ。 それはちょうど、氷というのがありますけれどもね、氷というのを、たとえば海面でもいいし、プールのなかでもいいけれど、プールのなかにドーンと高いところから投げ込むといったんぜんぶ沈んじゃいますね。氷がいったんぜんぶ沈んじゃって、スポッと水のなかに埋まっちゃいます。 これがちょうど人間でいえば赤ん坊の誕生の瞬間なのですね。氷ならぜんぶ埋まっちゃいます。ところが誕生してしばらくすると、いったん水中に沈んだ氷のように水面にポカッと浮いてきますね。 こういうふうに氷の上のほうの10パーセントぐらいは出てますけれども、残りの90パーセントというのは水面下に沈んでいます。これがちょうど人間の姿なわけですね。 人間というのは、そういう氷山あるいは氷といっしょで、10パーセントぐらいが表面に出ているけれども、残りの90パーセントというのが、水面下、海面下に隠れておるのです。 この部分が潜在意識層であり、まあ過去世の記憶でもあるわけですね。 こういうものを持っておるけれども、人間として生きている以上その氷といっしょでね、水面以上の世界だけを生きとるわけですね。水面下の世界というのを忘れて生きています。 まあオホーツク海かどこかに行くと、大きな氷山というのがありますし、まあ流氷かなにかも流れてきます。春になるとね。 この氷山といっしょです。氷山の下には、ベーリング海峡かあるいはオホーツク海かあるいは太平洋か知りませんけれども、無限の海が広がっておるんだけれども、氷はそんなこと知らんように海面に頭をポコーッと出してね、生きております。 まあ海面に出ている部分から見たらなにがわかるかというとね、カモメが出てきてね。 カモメがなんと鳴くか私はちょっと知らないんだけれども。カモメが「カアーカアー」じゃないでしょうけれども、カモメがね、「カモメ、カモメ」って鳴きながら、氷山の上に飛んできて魚を捕ってね、魚をその上で食べたりしているぐらいの世界しかないわけですね。 ところが氷山の下を見ると、無限の世界、神秘的な海っていうのが広がっていますね。これを人間は忘れてしまって、表面だけ、つまり、空とカモメと、それとピチャピチャはねてる魚ぐらいしか見えない世界で生きておるのですね。 これが肉体人間の世界です。釈迦がこのことをはっきりと説かれましたね。 6.「本来肉体なし」の悟り これをはっきりとつかんで有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)のなかに、「色即是空(しきそくぜくう)」「空即是色(くうそくぜしき)」という言葉がありますけれども、これについてはっきりとつかんだわけです。 つまり色即是空、色(しき)ってなにか。色って言うのは、この世の世界のなかに現われている現象です。 この三次元世界のことを現象界といいますけれど、色すなわち肉体として現われている人間、これは色である。つまり色だから目で見、手で感じられるような、存在感があるけれども、この色の部分、つまり現象界の部分である物質というのは、ほんとうは実相としては、これはないんであると。 色即是空、つまりこれは、空である。実相としてないということはなにかというと、つまりこの地上に魂が宿っている肉体というのは、仮の姿だということですね。仮の姿であって、ほんとうの姿じゃないんだと。 じゃ、釈迦の悟りは当時人間の肉体というのをどう見てたのか。 私は肉体というのは舟で、魂が船頭さんですよとわかりやすくいいましたけれども、そういう認識もひとつですし、まあそれよりさらに進んだ認識も持っとったんですね。 肉体は舟というよりも、じっさいは舟じゃないんだ。これはほんとうは舟よりも一歩進んで、これは蜃気楼(しんきろう)に過ぎないんだ。肉体というのは本来ないんだ。 なんかちょっと生長の家みたいな教えになってきましたね。谷口雅春さんにかわってもらわにゃいかんけれども、「本来肉体なし」の世界、これですね、釈迦の悟りっていうのは。本来肉体なしなんだ。こういうふうになったわけです。 だから「本来風邪なし」で、風邪をひいているように見えても、ほんとうは風邪なんかひいていないのです。そういうのは、迷いの姿なんですね。 仮にある肉体が、そういう蜃気楼みたいな肉体が風邪をひいているように見えるだけで、本来風邪なんかないんです。本来、病もないんです。 私は宗旨替えをして生長の家に帰依(きえ)したわけではありませんけれども、じっさいその通りなんですね。 7.霊子による物質の形成 それでまあ霊言、霊訓のなかでも、エジソンなんていう人がいて、どうやって物質が出てくるかっていうことを話してますけれどもね。光の玉が集まってきて、その粒が霊子(れいし)となって、やがてさまざまな素粒子ができてくるという話をしています。 つまりこの世の肉体、あるいは物質ですね。物質と見えるもの、ほんとうはこれは、しっかりあるように目に見えるけれども実在じゃないんだと。 その証拠に顕微鏡で見れば、たとえば、陽子あるいは電子。こうしたもの、原子核でいいけれど、陽子と電子というのが、けっきょくどういう構造かっていうとね、甲子園球場、巨人ファンのためには後楽園球場ですね。 後楽園球場というのをまあひとつみると、後楽園球場のなかの投手が立つマウンドの上に野球のボールを一個ポーンと置いて、そして場外に野球のボールをポンポンポンと何個か置いてある。こんなもんなんですよ、ほんとうはね。 原子っていうのが、ようするにマウンドの上のボール一個で、電子っていうのがね、軌道を回っている電子というのが、外野席にころげているボールぐらいなのです。 だからほんとうの物質の分子というのを見ると、そのなかはガラガラなんですね。スキスキなんです。ガラガラでスキスキです。 ですからほんとうはそんな後楽園球場のなかに球が二、三個ころげているぐらいの物質であるならば、物質と物質が当たったって、通りぬけるはずなんですね。衝突するわけはないのですほんとうはね。ところが衝突するように見えると。こういうように分子というか原子を見るわけですね。 そうすると後楽園球場のなかに球が一個落ちているぐらいが、ようするに原子であって、後はスキスキの構造になっておると。 すると、そのボール一個作ったのはどうしたのかというと、そのボール一個は、これは粘土を丸めて作ったんじゃないんです。 これが光のエネルギーなのですね。光のエネルギーが濃縮して一点に念が定まって、そういう点を作るんです。これが霊子(れいし)です。霊子という霊の子ですね。霊子ができます。 そしてやがて原子ができ、原子が集まって分子ができてくるんですね。分子のあとが粒子です。 こういうふうにして肉体の元となっているものを顕微鏡で見れば、小さな粒子です。粒子でできてます。 粒子自体はもっとバラバラのちっちゃなものでできてます。元は何かというと霊子ですね。霊の子、これからできておるのです。 その霊子は何からできているかというとエネルギー体なのですね。 先般も話したことがありますけれども、アインシュタインはエネルギーと質量とが、ようするにいっしょのものであるということを証明しました。質量というのは、一定の物質ですね。 物質として形をとっておるものは、その形を変えたときにエネルギーになる。ところがエネルギーがその運動を止めたときに質量になる。つまり物質になるということをいっています。 アインシュタインは知っているわけです。色即是空の意味を。 つまり人間の肉体とおぼしき物体、これは微細な粒子からできており、この粒子の元はエネルギー体である。 エネルギーが運動を止めたときに粒子になる。そしてこの粒子がまた運動を開始したときにエネルギー体となる。そして無限のエネルギーとなって大宇宙のなかを走り回るのですね。 8.普遍の実体としての人間の発見 まあ釈尊はもちろん、現代科学は知りませんでしたから、高橋信次みたいな科学者のようなかしこい説明がもちろんできなかったわけですけれども、そういうことを霊的直観で知っとったわけです。 つまりこの地上の肉体、肉体を作っておる細胞というのは、本来もともとあるんじゃない。それは彼の認識によれば、やがて火で焼かれれば灰になってしまうようなもんだ。 そして人間になる前にもとがあったかというと、もとはなにもありゃしない。 父と母がなんかちょっと夜いいことなんかしてね、ちょうどその時間がタイミングがよけりゃね、うまくいっちゃってね、ピタッと合っちゃって、精子と卵子が宇宙空間でランデブーして、そして子供ができます。 しかし精子と卵子といったってほんのちっちゃなものですね。ミクロの単位のものです。こんなものが大きくなってあなた、人間になるのです。信じられないことです。 これをたとえば比喩(ひゆ)であらわせば、どんなものかと言うと、まあリンゴー個ね。ニュートンのように言うと、リンゴの木の実が一個あったら、これがあなた地球ぐらいの大きさになるんですね。こんな大成長しているんです。信じられますか。 リンゴー個をね、ポトンと落としたら、そのリンゴが大きくなって地球になっちゃうんです。このぐらいの空間の差なんですね。こういうふうに精子と卵子が結合して人間になっちゃいます。 そしてまた焼かれたら、けむりになっちゃってどこか飛んじゃいます。 これを見て釈尊があの肉体というのは無常なもんだと。移り変わるもんだと。 しかし、こういうふうに移り変わるものが、ゼロから摂氏ゼロにもどるものが、これが人間の実体ではないはずだ。 また死ねばなにもかもおわると思っている人がいるけれども、死んでなにもかもおわって人間がけむりになってしまうんだったら、人間はいったいなんのために生まれて、なんのために修行するのか。 意味がないじゃないか。そんな無意味なことのために造物主というのが人間を創ったんだろうか、はたして。 とうてい信じられないね。ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)として悟りを開いた自分が、けむりになっちゃうんだったら、なんのために悟りを開いて、なんのために修行しているのかわからん。 そんな無意味な世界があるわけがない。絶対ない、そういうことは。 この世の中見たって、無意味なものなんかなにもないはずだ。 植物にしたって動物にしたってみんな、意味があって生きておる。人間だって意味があって生きておるはずだ。 その意味とはなにか。それはそんなにかんたんに消えてしまう、朝日が昇れば消えてしまう霧のようなものじゃないはずだ。 もっと普遍の実体がある。人間が神からわかれてきたもんならば、人間には普遍の実体があり、その実体をつかみ出して、そして信じることが、ほんとうの考えじゃないか。ほんとうの教えじゃないか。そういうことなんですね。 つまり、仏教の本質というのは科学といっしょです。エネルギー・イコール・質量であり、質量・イコール・エネルギーという、アインシュタインが二十世紀に発見したような理論というのを、釈迦はもう二千五、六百年前に知っとったわけです。はっきり知っとったわけですね。 だから肉体が消滅しても、魂は不滅で、エネルギー体として残っておるのだと。 9.永遠の生命としての人間の修行は、物質への執着を去ること そりゃそうですよ。その証明のために高橋信次が、いまここに出てきてマイクを持ってしゃべっているのです。 ね、高橋信次だって死んだら火のなかで焼かれました。しかし、GLAの教祖がやっぱり、お坊さんに葬式をやってもらうんじゃ問題があるから、坊さんの葬式はいらんだろうとね。 釈迦みたいに「私が死んだら私の死体は、灰にして、ガンガーの河に流してくれ。」と、ほんとうは言いたかったんだけれども、高橋信次の遺体をガンガーまで持っていけないから、しょうがないから「灰にしたら、隅田川にでも流してくれ。」なんて言いたかったんだけれどもね。まあそういうことは言えないんですけれどね。 そういうことでまあ死んでも実体があるから、いま、こうやってしゃべっておるのです。 この考えっていうのは、読者のみなさんはいろんな霊言集をいっぱい読んだでしょうけれど、たとえば私の言葉は、他の人の霊言とぜんぜんちがうはずです。個性がぜんぜんちがうはずですね。 私の前に出た内村鑑三さんとどうですか、いっしょじゃないでしょう。谷口雅春さんとどうですか。「本来肉体なし」のところは一致しとるかも知らんけれども、あとぜんぜんちがうでしょ。 こういうふうに個性というのは残るんです。身長一メートル六十三センチ、全盛期の体重七十五キロ、病気をしてやせたときは五十五キロの、高橋信次の肉体じゃあないんです。 そんなんじゃなくて肉体を取り去っても、ちゃんと個性がある。思考するエネルギー体というのはあるんです。ちゃんとあるんですよ。 これを釈尊がつかんだわけです。そうしてこういう永遠の世界を生きている人間であるならば、修行ということを真正面からとらえねばならんと。これを彼が考えました。 それではそういう永遠の生命体として生きている人間の修行はなにかというと、これは本来の神に立ち返る作業ではないか。 地上の物質にとらわれずに、本来の神の生命体としての尊厳をとりもどすことではないか。 この幻のような三次元のなかにおいて本来の世界の意味を知り、その世界の法則にそって生きることが、ほんとうの人間としての生き方ではないか。釈尊はそう思ったわけです。 そのためにはどうしたらいいか。つまり物質世界のなかで、惑(まど)わされている自分という者をはっきりと反省して、本来の自分をとりもどさねばならぬ。 そのためにはまず反省がだいじである。釈尊はそう言いました。なぜ反省をするのか。それはこの物質世界にたいする執着を取り除くためです。 執着とはなにか。物質・イコール・人間、人間・イコール・物質、物質はすべてとする考えです。 人間は生まれ落ちてより、この世的になってしまって、金や地位や名誉、あるいは異性だとか、あるいは食べ物だとか、こういうものにとらわれて一生を送っております。 人よりちょっと給料が多かったらうれしいとか、人よりちょっと肩書きがいいとうれしいとか、いろんなことを言っています。 名刺にいくら肩書きを刷り込んだって、死んであの世に持って還れんのです。 この世でいくら美食したってビヤ樽みたいな腹になったって、焼かれちゃったらおわりなんです。持って還れんのです、そのお腹はね。 そういうことなんですよ。それで釈尊はそれに気がつきました。 10.執着を去るための八正道という反省の基準 だから本来の魂の輝きをとりもどすためには、まず物質的なる欲望に翻弄(ほんろう)されている自分自身というものをしっかりとせねばいかん。そういうことを思い出しました。 それでまず執着というものを、物質に対する執着を取り除くための反省的瞑想というのをやりましたね。反省です。 その反省にはやはり、基準がいるだろう。 その基準とはなにか。これが八正道だったわけですね。 正しく見たか。あなたは今日一日正しく見たか。 正しく語ったか。だいじなことです。 正しくものを見たか。正しくものを語ったか。だいじなことですよ。 正しく思ったか。これもむずかしいけれども、だいじなことですね。 あるいは正しく生活をしたか。どうでしょうかね。 読者のみなさんどうですかここまで、できますか。 正しく見れましたか。正しく語れましたでしょうか。正しく思いましたでしょうか。正しく生活できたでしょうか。 お昼過ぎて起きているような人もいるんじゃないでしょうかね。どうでしょうかね。 朝昼兼用にすまして、「ああこれで安く上がった」なんていっている人がいるんじゃないでしょうかね。正しく生活できたかどうか。 さらに正しく精進(しょうじん)できたかどうか。ね、精進ってなんですか。 つまり神仏への道をきわめることね。きょう一日神仏への道をね、一歩でも二歩でも進めたかどうかね、自分が。 退歩しとらんか。進歩したかどうか。正しく道に精進したかどうか。 あるいはね、正しく仕事をしたかどうでしょうかね。正しく仕事をしたか。 「イヤー、風邪ひいちゃって。」なんてね。「まあ今日はいいや。」なんてね。 「二、三日してまた風邪が治って仕事すりゃいいから、風邪ひいたらできないもんはできないんだから。」とか「もう風邪ひいたらね、あなたねむずかしいことなんてできやしないんだから。」とかね。「学生さんなんかだけでしょう、試験問題なんかできるわけがないでしょう。」なんてね。 これを録音しているときにまた、研修に向けてね、受講生を絞るというんで研修の参加資格認定試験なんて作っております。 これでふるい落とそうなんてやっておるけど、こんな試験問題を送ってこられたら、「風邪ひいているからきょうはできないや。ひと風呂浴びてね、もうカッカ、カッカ暖かくなってね、グッスリ眠ってまた頭の調子がよくなったら解いてみよう。」なんてね。 「そうしたらきっといい答案ができるにちがいない。」なんてね、思う会員さんがいるでしょうけれども。 そうじゃいけないんであって、人間一日一生でいつ死ぬかわからないんです。そういうことで正しく仕事をしたかどうか、学生なら正しく勉強したかどうかです。これもだいじです。 11.正しく念ずる、正しく定に入る、ということ それから、正しく念じたかどうか。 自分の念(おも)いですね、念じるというのは、天台智覬(てんだいちぎ)さんという偉い人がいて、「一念三千」ということを説きましたけれども、心の念いというのは、すべての世界に通じています。 それならばやはり、よい世界に通じるように念いを正していかねばいけません。 また念いには方向性があります。そして未来に向いている念いは、やはり光明思想ですね。 いい方向のほうに向いていかなければ、人間まちがった方向のほうへ行ってしまいます。こういう念いの調整が、正しく念ずるということであります。 そして最後に「正しく定に入る」というのがあります。禅定(ぜんじょう)するっていうことですね。禅定するっていうのは、精神棒をいれられるために座っているんじゃないんです。 「今日はハム・ソーセージを食べたいけど精進料理しか出てこんのか。悔しいけど、我慢するから海苔(のり)もう一枚くれんか。」などとね。 「タクアンもう一切れあればいいのに。」と思いながら座っとっても、正しい禅定にならんのです。 そうじゃなくて、正しい禅定というのは、いま言ったように自分をふり返る作業をしながら心の執着をはらして、そして真実の神の子としての自分に立ち返ることなんですね。 これが正しい禅定です。これを毎日やりなさいと釈尊は言いました。りっぱですね。 これさえできればあなた、ほとんどの人間は完成に近づいていきます。 12.釈迦教団にはいるときの厳しさが現代の新興宗教にあるか これができた人って釈迦弟子でいくらいたかって、やっぱりいないんですね。ただ、この作業を続けていると後光がでてきます。オーラがね。釈迦教団にはいることはひじょうにむずかしかったんです。一週間、山のなかで反省的瞑想、禅定をやってオーラが出た者しか、入会を許さんという、こんなに厳しいです。 どうですかね、いまの新興宗教やっているみなさんがた、こんなことできますか。 オーラが出なきや入門を許さないなんていったら、どこも経営危機になって、つぶれてしまうでしょう。そして教組様がおまんま食いあげて、七転ハ倒するでしょう。 一人でも多く増やさねばいかんちゅうので、いい教えならいいけど、悪い教えを広めるために一生懸命勧誘しています。こんなのやるのは愛の共同募金ぐらいにしとけばいいのです。 現在どうですか。いろんな宗教団体で、そんなオーラが出なければはいれないようだったら会員何人になりましょうかね。 教組様自体がオーラが出ていないから、入会できないんじゃないでしょうかね。私はそう思います。 そういう意味で釈迦仏教を現代に復活させようとするならば、現代ではオーラが出るまでといえんだろうけど、やはり正しくほんとうにやる気があって神理の書を読み、神理について理解ができている人、こういう人が入会を許されると、こういうふうな団体になるでしょうね。 やはりね、出発点というのはそうしたもんで、ブッダというのも会員を増やそうとかね、サンガー(教団)の人口を増やそうとかね、ぜんぜん思っていませんでした。 そうじゃなくてひとりでも多くの人がね、ほんとうに悟るためにやはり修行が必要で、その厳しい修行についてこれるのは、ごく少数であろうと思ったのです。それでも、それでもと道を求めて人は来たのです。 これは現在の禅でもいっしょですけれどもね。そういうところがあります。だからこれがほんものなんですよ。人を勧誘して入れなきゃいかんという宗教は、ほんものじゃないんです。ほんとうに優れた人、ブッダとなるための多くの人がどうしても門をたたきたいと、はいってくるのがほんとうの教えなんです。そうじゃなかったらいけません。 だからこれからもそうした真実の教えというものが、説かれていく時代になるでしょうけれども、そういうふうに、どうしても入れてほしいというような人を、そしてやはり勉強をしている人を絞って入会させるような、そういう昔の釈迦教団のような、そういう宗教があってもいいじゃないでしょうかね。 宗教の悪いイメージがあるのはどうも、そこにはいっている人がおかしいのが多いからです。宗教でもいいイメージを作らにゃいかん。 いいイメージってなにかというと、はいっている人が、やっぱり優れた人で、そう簡単にははいれない。ほんとうにそのなかにはいっている人は心が調和されてね。理想的な人生を生きている人たち、こういうのがほんとうなんです。 13.有名人で人集めする宗教はまちがっている いろんな宗教がありますけど、有名人いっぱい呼んでね、有名大の名前で人を集めているようなのいっぱいあります。こんなのまやかしなのです。 みなさん注意しなさい。まやかしですよ。ほんとうの心の教えを求めている人たちを集めていくことです。こんな有名人なんかの顔写真をいっぱいのせてね、人を集めている宗教なんてみんなまちがっていますから、たいていの場合。用心しなさい。 いくつかの宗教があるでしょう。有名人をやたら呼んで、機関誌とか雑誌に顔をのせてね、それで人を寄せているところいっぱいあると思います。 まあこういうのは用心しなさい。ほんとうの教えというのは、そんなもんじゃないんです。ひとりひとりのものなのです。 きょうは長くなりましたけれども、甦る仏教ということで仏教の現代的意義をかんたんにサラッと話をしました。まあこれもひとつの考えの材料になればいいと思います。 まあこのつぎは「永遠の生命」ということで、さらに話を進めていきましょう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/309.html
目次 1.人類は死滅するか 2.ノストラダムスの予言は当たるか 3.核戦争を考える 4.正義と正法 5.日本の繁栄 6.超人類の出現 (1988年6月18日の霊示) 1.人類は死滅するか 高橋信次です。みなさんこんにちは。久しぶりですね。前回収録してからもう九日たっちゃいました。 何でこんなに間があいたのかというと、〇〇先生が夏バテなんですね。〇〇〇〇先生夏バテで、なかなかやってくれないんです。なんで夏バテかと言うと、まあ講演会ね、「ユートピアの原理」なんていう講演会を大阪でやっちゃって、元気いっぱいやったものでくたびれて、その後はなんだか知らないけれども、日本神道系の、何ですかねえ「運命の開拓セミナー」なんかを六月に入ってやりまして、私たちは日本神道なんかもういいと思うんですが、そんなセミナー三時間もやったもんで、くたびれちゃって夏休みでね。私は九日も待たされました。 本来私の大予言は、今年の五月中に収録が終わる予定だったんですね。だから最初から私の予言が外(はず)れているんです。予言がもう早くも一か月ズレました。みなさん、こういうふうに予言というのは非常に当たりにくいものなんです。 それは、地上に生きている人間が、私たち高級霊が思う通り働かないということが原因なんです。こういうふうに働けと言うのだけど働かない。それが非常に悔しいのだけども、私たちが言うように働けばそうなるのだけども、やらないんです。それほど地上の人間というのは、性格がまあザッとしているんです。ザッとしている。神の心を心として生きていれば、ちゃんと予言は成就するんですが、神の心を心として生きないために、成就しないんですね。まあそういうことがあります。 さて、そうした怠け者の夏休み人類をどうやって成敗(せいばい)するか、あっ失礼しました、救うか、これが私のこれからの仕事になるわけです。 そこで本書はね、『高橋信次の大予言』と銘打ちましたので、多少予言のことも言っておかないと羊頭狗肉(ようとうくにく)って言うか、「千円損したあ」と言われると困るんで、予言の話をしたいと思います。ただ予言の話はしたいけれども、あんまりくわしい年号とかを予言してもらうと、高橋信次の予言はたぶん外れるんじゃないか、外れると後のちの信用にさしつかえるのじゃないか、そういうふうな声も一部から聞こえるんですね。したがって、こまかい具体的な予言はやめてくれ、大まかに、多少ズレてもわかんないような予言だけやってくれ。こういうリクエストが一部からあるものですから、やむなく、そうした線で話をしていきたいと思います。 なんせ〇〇先生が、夏バテでまいってますから、私の言葉に力がなくてもみなさん勘弁(かんべん)してくださいね。そういう時期もありますから。先が長いですからね。五十集、百集ねらっている人としては、時どき気を抜きながらやらないといけないですね。本書は特に第1章で力を入れ過ぎたため、あと竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の傾向が出てますので、第6章だけは締めたいと思っているのですが、5章は気楽に読んでいただきたい。こういうふうに私は思うんです。 ―前置きがたいへん長くなりました。人類は死滅するか、こういう一節のテーマを取り上げたわけなんですが、ま、死滅するかって言うと、そらまあ、寿命が来たらそれぞれ死んでいくわね。そういう意味では死滅するのですが、死滅はしても、あと子孫が出来る場合は死滅とは言わないね。だから、その辺の違いはあるわけです。人類は死滅するかって言うのは、いかにも人の気を引くような標題ではあるわけですが、要するに何が言いたいかと言うと、天変地異があるかどうかですね。そういうことでしょう。 みなさんも怖いのが大好きだからね。怖い事件が起きるのが好きなんです。だからこれなんかも『高橋信次の大予言』改め『高橋信次の恐怖の大予言』にすると、ものすごく売れると思うのですが、いかんせん私は平和を愛する神様なので、あまり恐怖のことは言いたくない。 ただね、十九世紀の末でも世紀末ということで、世紀末思想がいっぱいあったようだけれども、二十世紀も末になって、やっぱり世紀末思想がずいぶん出てきたね。特にノストラダムスちゃんというのが非常に頑張ったために、人々には恐怖心があるし、また核戦争の脅威等々ありますね。これらについても話をしておきましょう。 まあ結論から言やあねえ、人類は死滅はしない。なぜしないか。するなら私が霊示集出す意味がない。出しても読者がいなくなる。読者がいないと、あと困りますね。そういうことですから、あの世の読者だけになるんなら、あの世で話をすればいいんであって、この世で霊示集を私が出しているということは、私の読者が連綿と続いていくであろう、ま、そういうことを予想しているわけですね。死滅するなら出す必要はないわけです。死滅するなら救世運動ということも必要ない。 だから、非常にテクニック的な発想かも知れないけれども、先のことがわかる霊たちが予言書を出したり、霊言を出していること自体、人類が死滅しないというそうぃう証明になっている。死滅するなら、そんなの出すのは馬鹿馬鹿しいですね。出版社が燃えちゃうし、あなた、印刷屋は機械が潰(つぶ)れるしね。読者がみんな墓場に入ってしまうんなら、予言書は必要ありませんね。そういうことですから、あくまでも存続することを前提にやっている。ま、こういうふうに思っていただいて結構かと思います。 そこで存続はするけど、じゃあ、だいぶ致命的なそういうことが起きるのかどうか。こういうことですね。土屋書店さんから出した『内村鑑三霊示集』ですか、そういうのを読むと、なんかエホバの手が激しく大地を打つであろう、そしてなんか南極の氷が流れ出したり、北極にイルカが泳いだりするのかどうか知らないけども、熱帯と寒帯が入れ替わったり、大地が割れたり、噴火したり、そういった激しいことがあり、その原因はエホバが大地を打つからだということになっとる。 最近一説では、エホバが高橋信次ではないかという説が有力説として唱えられている。すると、高橋信次が天変地異を起こすんではないか。人類を殺すつもりなんじゃないか。まあ、こういう発想が、一部にあると思うんですね。また、一部の醒(さ)めた人から見れば。「そんな力があるわけねえじゃねえか。」と、「そんな力があるんなら、ウルセイ弟子たちをはっきりもう死滅させているはずだけど、全然元気でやっとるんだからそんなはずはねえだろう。」と、こういうふうに言う人もいるとは思いますね。 さてどうか。まあ、私は無実だと自分は信じてます。おそらくは私ではなくて、地球意識という十次元意識がボリボリとおなかのあたりをかいたら、天変地異が起きるんであろう。そういうふうに考えています。 ただ、人類にそういうダメージが起きるかどうかだけれども、今のところね、八割ぐらいの確率で、かなりのことが起きるのではないかと言われています。想像されています。これについて、くわしく話をしていきたい。こういうふうに思います。 2.ノストラダムスの予言は当たるか これまた大変な題をつけてみました。ノストラダムスの予言が当たらないとまた困りますし、当たっても困るし、いろいろなのですが、私のちょっと前に『ノストラダムスの新予言』というのが出たんですね。その後で、『高橋信次の大予言』というのが出るんです。 さあ、これで内容をどうするかね。ノストラダムスと一緒にするか。まったく逆のことを言ってみるか。ノストラダムスの予言は当たらないと言ってみるか。まあ、後から言った方がもちろん勝ちですけどね。先に言ったら後のことは修正できませんから、後から言った方がもちろん有利なんですね。 まあ、当たるか当たらないかですが、うーん、五分五分だったら当たらないうちに入ると思うのですが、まあそうだね、五分五分よりはもちろん当たるとは思うんですがね。その程度じゃないかと思うんです。特にノストラダムスのは、何て言いますかね、激しいからね。人口が三分の一になるとかいう、結構激しいことを言うから、それだけをまあ、そのまま信じられないんだけれどもね。あるいは核戦争などね、これは次の節かな、そこで話をしますが、まあ、ノストラダムスの予言が当たるかどうかですが、それはね、おそらく『高橋信次の霊示集』の売り上げと関係するんじゃないかと思ってるんです。 すなわち、私のこの霊示集がものすごく爆発的に売れて日本国中に広がり、あるいは世界中に翻訳されて広がるような段階になると、ノストラダムスの予言は多分当たらないと私は思うのです。 ところが私の予言書が、あるいは私の霊示集がだいたい二万部止まりで終わりのようなことがあるならば、おそらくノストラダムスの予言は当たる。そして、全人類は非常に厳しいお仕置きを受けるであろう。まあ、こういうふうに思うんです。パシパシッとね、お仕置きを多分受けるだろう。こういうふうに私は感じます。 なぜか、なぜそうなるかというと、結局、こういうことなんです。みなさんは、いろんな本を読んでいるから過去の人類の歴史、そういうものも勉強が済んでいると思いますが、天変地異が起きて文明が滅びたりする時には、いつも一定の条件があるんですね。 その一定の条件とは何かっていうと、末法の時代になって正法がものすごく弾圧されたり、圧迫されたりして、唯物思想が非常に広がっていること。そして光の天使たちが迫害されたり、処刑されたり、そういう時代だね、魔が非常に跳梁(ちょうりょう)しているような時代。こうした時代に天変地異が起きているっていうのは、これはもう過去の歴史を見たらその通りなんですね。アトランティスが滅びた原因も、ムーが滅びた原因も結局は一緒ですね。そこに住んでいる人たちの想念が、非常に曇りました。 そして、想念が曇るとどうなるかっていうと、人間の想念というのは、非常に強いひとつの力を持っており、それがやっぱりさまざまなものに影響を与えていくんです。 たとえば地上、日本でもいいけれども、一億人の人間が住んでいて、その人たちが唯物思想という、まあ、これは心の病気だね、そうした心の病気にとり憑(つ)かれて、あるいは信仰をしても間違った信仰ばっかり、現代流バール信仰ばっかりやっていて、そういう間違った想念を蒔(ま)き散らしていると、どうなるかっていうと、日本という国の上に想念の雲がかかってくるんですね。そういう人間の出している想念の雲がかかってくる。 こうなると、どうなるかっていうと、想念の曇りが結局、霊太陽の光を遮(さえぎ)るんです。そうするとどうなるかっていうと、影ができます。影ができるとどうなるかっていうと、いわゆる地獄の領域が増えてくるんです。地獄の領域が増えてくる。日本というところを中心に地獄の領域が増えてきて、実在界、あの世の世界でも要するに地獄の領域が増えてくるんです。 そしてますます光が射さなくなって、地獄霊たちの跳梁(ちょうりょう)が激しくなる。そして地獄霊たちがいっぱい増えてくると、それが地上に出てきて、地上の人間に次つぎに取り憑いちゃう。まあ、ソンビの世界ですね。ゾンビの世界みたいに取り憑(つ)いちゃって、いろいろ入って飛んだり跳ねだりする。暴れるね。宗教を説いてる人なんかに入っちゃう。あるいは正法の団体のなかにも入り込んで、弟子たちをおかしくして狂わしたりする。こんなことをし始めます。 こういうふうにして、段々乱れていく。こうなってくるとどうなるかというと、地球意識という霊意識から見ると、日本の上にかさぶたっていうかね、そういうものができたのと一緒で、かゆくてかゆくてしょうがないんです。 今六月ですから、水虫、たむしの季節ですが、かゆくてしょうがありません。ボリボリボリボリかいちゃいます。かいちゃうとどうなるかっていうと、フケとかがやっぱり取れますね。あるいはかさぶたっていうのかね、あれもポロッと取れますね。そういうふうになります。そういうふうに、地球意識がガリガリッとやると陸地が沈んじゃうと、まあ、こういうことが起きるわけなんですね。 したがって、そうしないためにはどうするかっていうと、いんきんたむしをつくらないことが大事です。いんきんたむしをつくらないためには、そういうばい菌を繁殖させないことが大事です。ばい菌を繁殖させないためにはどうしたらいいかというと、常に清潔にしておくこと。風通しをよくしておくこと。夏は短パンをはいて、アロハを着ていること。そして涼しいところにいることですね。扇風機もないようなところで汗流していたら、いんきんたむしになってきます。そういうことです。だからそういうふうに、清潔にして涼しくしておくことが大事です。 これを心の世界というか、人間の世界に当てはめると、一体どうなるかっていうと、結局そこで生きている人たちの大部分の意識を、浄化するっていうことが大事です。浄化するっていうのは、どういうことかっていうと、まあ、神様の心に近い生き方をするっていうことですね。それが大事。そうすると、いんきんたむしにならないのですね。風通しがよくなって、清潔になって、そのようにはならないわけです。 ところが金がないからと言って、三日に一回しか風呂に入らないとね、「銭湯(せんとう)高くなったあ。最近二百七十円だあ。」なんて言って、三日に一回しか入らないと病気になるわけです。皮膚病になったりします。そういうことがあるわけです。 やっぱりお金ができたらね、ちゃんとお風呂に入ったり、温泉入ったりしなきゃだめです。薬湯とかいろいろあるんです。温泉にもいろいろありますね。なんかブクブク泡が出る泡沫(ほうまつ)湯とかねえ、あなた、寝たまま入る寝湯とかねえ、打たせ湯とか、かぶり湯、ねえ、薬湯から始まって、ラジウム温泉ね、いろいろあるんですよ。そういうふうに温泉もいろいろあって、体によく効くんですね。そういうとこでよくつかるといいんです。 だから、結局、ノストラダムスの予言が当たるかどうかは、高橋信次の霊言が広がるかどうかだよ。ま、これはひとつの極論でありますが、意味としては一緒ですね。すなわち、今一丸八八年ですが、これから世紀末までの間にどれほどその救世運動というかね、まあ、救世運動というような言葉は大きいかも知れないけれども、本当の教えが広まるか、あるいは人類の心を浄化するということができるかによって、予言が当たらない可能性が非常に強くなるっていうことです。これは、風通しをよくし、清潔にしたからね。。クレゾールで洗ったからきれいになるっていうことです。 だからまあ、私は言っときます。日本がノストラダムスの恐怖の予言の対象外になるためには、高橋信次のこの霊示集一冊が少なくとも百万部以上売れないと絶対無理です。そうしない限りは、どこが沈没するか知りませんよ。売れ行きの悪い都市は、だいたい陥没するでしょう。そこの書店は全焼するでしょう。まあ、そういうふうになるかもしれません。 だからね、まあ、これは半分冗談で言ってるけども、大事なことです。本当の意味でこの神理が広がるか広がらんか、これにかかっています。みなさんね、かかっていますよ。これを言っときましょう。 3.核戦争を考える いよいよ核戦争に入ってきたわけです。『ノストラダムスの新予言』だと、核戦争が相当起きて「ジュネーブが打たれる」だとか、「西側がやられる」とか、「ソ連にも核ミサイルの雨が降る」だとか、いろんなことを言ってるようですね。まあ、言うのは勝手ですよね。あと責任とれないでしょうが、言うのは勝手でしょう。 ただ世界の雰囲気、今はちょっとデタントだとか、いろいろ軍縮やってますが、軍縮なんかやり始めるとかえって危いんだよね。揺り返しがまた来ることは事実ですね。 それと、注目すべきは今ソヴィエト連邦というところで、ペレストロイカっていう改革やってますね。これの行方(ゆくえ)がやっぱりひとつの鍵になるんですよ。みなさんね、今ゴルバチョフさんという新しい指導者、若い指導者が出て、ソ連の自由化やってますね。民主化やってる。これが成功するかしないか、これは大きいですよ。これで結果がかなりズレるんです。ゴルバチョフさんが、もしソ連の民主的改革に成功すれば、かなり今とは局面が変わります。今、彼を指導している霊たちもいます。何とかしてソ連をもうちょっと陰湿じゃなくて、何というかね、解放された民主主義的な国にしようという運動がある。 これが失敗した場合には、一転します。反権力、反革命運動が起きてきますから、この逆の揺り返しが来ます。もしゴルバチョフ勢力なんかが粛清されたり、あるいは除かれるようなことがあったら、これは核戦争が近いと思って間違いないと思います。だからその意味では、現在進行形であるけども、彼のペレストロイカ、ソ連の改革が成功することを、みんな祈った方がいいですよ。私も祈ります。 ただ、危険な面も相当あるということです。やはり人間には保守性があって、そうそう簡単に体制は変えられないんです。だから、ソ連の国の教祖様は結局マルクス、レーニンですから、マルクス、レーニンという御本尊様の意向に背いた場合に、さあどうなるかということがあるわけです。 どこかの宗教団体でも、初代と違うことを二代目が言い始めて混乱したようなところがありますが、そういうふうに、御本尊、御数組様と違ったことを言い出した場合、成功する可能性は少ないことが多いです。それを納得させるだけの力がなければ、成功しないことがある。 そして、この改革が成功せずに、揺り返しが起きた時には、人類は大変な危機を迎えると思っていいです。その意味で、彼が成功することを私は祈っています。 ただ最近、なにかブーニンっていう音楽家が亡命したんだそうですね。なにかソ違に出た光の天使、音楽の天才が逃げちゃって、もう駄目ですね。彼は、ショパンが指導してるんだけど、入って弾(ひ)いたりしてるんだけれど、逃げちゃったね。アメリカに行きたいとか、日本に行きたいとかいろいろ言っているけれども、駄目ですね。日本に来て、演奏でもしてくれるかもしれませんが、まあ、逃げちゃいましたね。残念だね。ソ連のひとつの新しい雰囲気っていうか、新時代をつくるための役割を果たしてほしかったなあと思うんだけれど、なかなかペレストロイカでも満足できなかったということだろうね。 で、ブーニンらがいられるような社会にしようとして、ペレストロイカをものすごく前進させると、今度は反動勢力がすごくなるんだよね。そして中途半端にすると、逆に今度はそういう自由を求める人たちがいられない。こういうことがあるから、結構あれも苦しいだろうね。苦しい闘いだろうと思います。 だから、核戦争の有無はソ連にかかっていると考えていいです。あの改革が失敗したら戦争になると思っていいです。間違いありません。指導者が替わった時には危ないですね。だから、何とか成功するようにさせてやりたいなと思っております。 それともうひとつは、先ほど言った救世運動の広がりですね。これがどこまで行くか。これによって救えると思う。すなわちその民族、国の上空にあるその想念ですね、想念の雲を晴らすことが大事なんですね。雲を晴らしてしまえば、太陽の光が燦々(さんさん)と注ぎます。そういうふうなものなんです。そうすると、天変地異が起きにくくなってくるんです。 ソ連という国も、相当上空を想念の曇りが覆っているんですね。この唯物思想、あるいは神を冒涜(ぼうとく)する一部の思想、あるいは民衆を弾圧し亡命が相次ぐ、あるいは革命などと言っても粛清ばっかりやってきた革命、こうしたことによって、相当国全体が暗い想念に包まれています。まあ、こうしたことがありますし、あと東欧、東ヨーロッパとの兼ね合いですね。この辺も非常に暗いけれども、どうなるのかということですね。 あともうひとつは寂(さび)しい予言として、アメリカの、何て言いますかね、没落ということがいろいろ予言書のなかで出てきているようです。あれだけ世界の警察犬で頑張っているアメリカですね。あっち行って吠え、こっち行って吠え、第七艦隊派遣して吠えまくっているアメリカが、没落するという可哀相な話をしています。わずか数百年、二、三百年の歴史しかないあの現代のローマですね、ローマ帝国が、あっという間に消えていくというようなことが予言されている。 なぜそれほど停滞せねばいかんのか。没落しなければいかんのか。あれだけ光の天使が数多く出た国が、どうしてそうならなければいかんのか。そうした考え方が、ひとつにはあると思います。 ただこれもね、ひとつの計画があるという話を知ったでしょう。大西洋にひとつの大陸が浮かび上がってきて、新大陸ができてくるという、これはある意味では新しい福音だよね。単に没落する、あるいは沈没するだけならさみしいけど、新しい大陸が浮上して住みかが増えるっていうんだから、それはそれなりにいいよね。まあ、そういうこともあると考えてください。 そういうことでね、とりあえず今のところの予定としては、あの米ソの勢力がかなり後退していくということです。今世紀末を境にして、何らかの形で後退していくでしょう。だからソ連は革命の行方(ゆくえ)、改革の行方が問題です。アメリカは経済的な衰退、これが問題です。今もかなり弱ってきています。円高、ドル安とか、いろいろ言ってますが、アメリカ経済は非常な国家的赤字をかかえ込んで、頓死の状態に近いです。だけども威信をかけてやっているもんだから、ますます苦しくなってきてますね。赤字国家です。もう世界の債務国になっちゃってます。転落しています。 さあ、これからこの改革がどうなるか。レーガンさんについての評価はいろいろあると思いますが、彼は強いアメリカを演出するためのレーガン政策をやってきたわけだけど、結果的に見ると、アメリカ没落への伏線となったんだ、彼はね。これがわからないだろうか。みんなまだわからないかもしれないね。アメリカンドリームを背負ってね、俳優、ハリウッドの二流役者が大統領になっちゃって、そして強いアメリカを演出しようとして、ガンガンガンガン軍事費を増やして、減税やったんですね。 あなたわかりますか。個人の経済で考えたらいいよ。家に自動車いっぱい買って、そしてあの減税ってことは収入が減るんでしょう。たとえば商売していて、商売で安売りして、利益減らして、そして家に自動車いっぱい買ったらどうなるかっていうと、赤字になるんですね。そういうことをやったんです、彼はね。軍事費はどんどん増やして、そして赤字借金になっちゃったんです。減税もしたしね。そういうことをして赤字財政つくっちゃったんですね。マネタリズムかなんか知りませんが、その通貨供給学派かなんかね、そういうの聞いてやったら失敗しちゃったんです。あれは失敗なんですね。 だからハリウッドの夢はいいけど、おそらく二千年以降の人びとから歴史的に見れば、実はアメリカが没落したひとつの曲がり角は、レーガン政権であったということが明らかになると思います。彼の経済政策が間違っていたのですね。これがひとつアメリカ停滞のきっかけになりました。 それ故(ゆえ)に、おそらくアメリカの一九九〇年代の没落は、経済的没落から始まっていきます。おそらくそうなるでしょう。経済的に力が非常に低下してきます。西側のリーダーから、ひとつの有力国に落ちていくと思います。ソ連の場合は内乱、革命、こうした問題である程度弱っていくでしょう。 そして、やっぱり強くなっていくのはおそらく中国ですね。中国が結構強くなっていきます。中国、韓国、日本、この辺が強くなってくる。まあ、中国も革命が予言されていますが、力としては強国にまたのし上がっていきます。こういうことが言えますね。中国、韓国、日本、このあたりが強国になっていきます。したがって、光は東方よりじゃないけれども、アジアに強国が出てくるっていうことです。続々とね。アジアの強国が出てくるということが言えると思います。 まあ、そういうことで核戦争などは、ソヴィエトのペレストロイカの行方(ゆくえ)とアメリカの経済的な問題との兼ね合いで、やっぱりいろいろ事情が変わってくることがあります。核戦争を回避する前提として、やっぱり世界の浄化が第一である。こういうことを言っておきましょう。 4.正義と正法 さて、私は、正法を説いているということになっているわけだけれども、「正義と正法」という話もしておきたいと思うんです。 たとえば、正法でいうと、モーゼの律法もそうだけども、「汝、殺すなかれ」「汝、奪うなかれ」「汝、隣人の妻を貪(むさぼ)るなかれ」、あるいは「羊を取るなかれ」「偽りの証(あかし)を立てるなかれ」と、まあ結構ありますね。こうした法律の根源としての正法というものもあるんですが、これから社会を改革していくために、ひとつはやっぱり今の法制度ですね、これがどうも神の法、神法と少しズレてきている面があると思うのです。 したがって法制度の改革ですね、これをもう一度やらねばいかんと思います。社会を規律する法、あるいは裁判制度、いろいろありますが、こうした正義とは何かという部分に、もう一度正法の裏打ちが要るようになってきたなと思っています。法律(LAW)っていうのは、ある程度正義の実現のためにできていると思いますし、市民社会を悪から守るためにあると思うんですね。ただそれらが残念なことに、学問的な部分、人間の知と意で多少曲げられた部分が多いと思うので、やはり正義と正法の考え方をもう少し入れていく必要があると思います。これをしないと、本当の意味で人類の浄化ができないと思いますね。 それは単に、日本という国の国内法だけをとり出して言っているのではないのです。やっぱり国際法って言いますか、国際的なルールのなかでの正法に裏打ちされた正義の確立が大事だと思う。まあ、国運だなんだって言っていろいろやってますね。国際紛争解決だとかいろいろやってますが、ああしたところにやはり何て言うかね、私たちが今目指している正法神理、これの国際的な正法神理を確立して、それを導入していくということが大事であろうと思います。 結局ね、政治紛争の根源にあるのは宗教です。どこもかしこも宗教がやはり根源にあるように思います。米ソの対立も結局、キリスト救国と唯物主義国との戦いでしょう。イラン・イラク戦争だって宗教でしょう。まあ、そういうふうに、結局政治紛争の裏には宗教がある。したがって政治問題を考える時は、宗教という問題を抜きにしてやれないんですね。これを抜きにしては考えられません。 だから、政治と宗教は非常に似たところがあります。それは、現象としても似たようなところがあります。宗教も、何が正しいのか、何が間違っているのかわからなくて数で勝負している、勢力で勝負しているようなところがあるわけだけれども、政治もそうだね。自民党と、社会党と、共産党と、公明党で一体どれが正しいかって言ったら、それはわからんね。よくわかんないでしょうみなさん。それぞれ支持者がいるっていうことは、どれもやっぱりある程度の正義を体現してるんでしょう。で、わからなくて多数決でやってるんでしょう。自民党でも派閥争いしているね。結局、多数決であれもやってるんでしょう。 こういうふうに、宗教の世界と政治の世界だけは、結論がなかなか見えないところがあるんですね。何がいいのか、わからないところがある。 それはなぜかっていうと結局ね、私はこれを今明らかにしておきたいと思うんだけれども、ま、多様な価値観とも関係があるのだけれども、利益の比較考量(ひかくこうりょう)という問題があるんだね。Aという考え方とBという考え方、それぞれに利益は生むことがあるんだね。利益は生むことがあるけれども、どっちがより利益を生むかというところで考え方が分かれるんだね。 たとえば科学法則なんかは、法則が合っているか合っていないか、これにかかっているよね。たとえばニュートンの古典力学の世界では、時間と空間というのがある程度、確立しているという前提のもとで説明が進んでたね。ところがアインシュタインが出てから、時間と空間が相対世界の中に置かれたわけだね。で、光の速度こそが一定で、絶対だけれど、時間と空間は歪むということになっちゃったわけだね。宇宙に流れている時間あるいは空間は、これは一定ではない。コンニャクみたいな世界になっちゃったんだね。 で、住んでいる人は非常に不安になってきました。自分たちはちゃんとしたところに住んでいると思っていたのに、コンニャクみたいなところに本当は住んでいるらしい。伸びたり縮んだりするらしい。これは大変なことだ。コンニャクを貫く、何て言いますかね、貫くものですか、針でも、はしでもいいや、おはし、おはしがコンニャクをブスッと貫く。あるいは豆腐でもいいや、豆腐を割ばしでプシューッと突き刺すと、その割ばしが突き刺す速さだけが絶対的神理、正しく一定してて、豆腐そのものはグニャグニャである。コンニャクそのものはグニャグニャである。こういう世界観をアインシュタインは出しましたね。 まあ、これにしても現実はどうあれ、物理的理論というのはイエス・オア・ノーになるわけです。イエスかノーかですね。こういうふうになります。だから結論はひとつしかないんですね。 ところがこの宗教と政治の世界は、結論がひとつでないところが問題なんだね。Aという利益、Bという利益、Cという利益がそれぞれ出てくるのですね。利益ということがわからなければ良さと言ってもいい。それが出ることがある。これで比較考量って言いまして、左右比べてどっちがいいか、ABCでどれがいいかの判定があるけど、これが難しいんだよね。難しい。 それも計る時に一定の規準だけなら簡単なんだよ。人間で喜ぶ人の数が多い方だけやっとればいいなら、そりゃたとえば新幹線なんかつくる時ね、喜ぶ人の数の方が多ければいいのなら、それはまあ問題はないね。どこを通したっていいことになる。それを利用する人の方が多いからね。圧倒的に土地所有者より利用する人の方が多いから、そりゃあ国民投票すれば、それは賛成するに決まってる。たいていの場合ね。それを利用する人がいる。 だけど現場に住んでる人から言えば、自分が長年老舗(しにせ)やってるところを新幹線通されちゃったら大変なことになるよね。もっと広いところあっちにあるならあっちに通しゃいいじゃないかと、こうなるね。この辺の判定、政治の問題だけど難しい。多数決だけでいいなら国民全部にやらしたら賛成が多いけど、住民だけを選んで多数決やったら、これは反対が多くなるよ、きっとね。そこの町だけでやったら反対が多くなる。日本国中でやったら賛成が多くなる。これをどう解決つけるのか。これは政治の問題だよね。 これは単に数だけじゃないだろう。やはり質の問題があるね。その住民が負担しなければいけないその負担感というのが、どれほど大きいかだな。他の人の満足感と比べてどれほど負担感が大きいか。この辺の探究が始まるんだね。 宗教だって一緒だ。それぞれやっぱりいいとこはみんな持ってるんだな。いいとこ持ってるけど、悪いところもあるしね。あるいはAの宗教とBの宗教とどっちがいいか。天理教と金光教とどっちがいいかって言っても、難しいとこあるよね。まあ、いいところは両方あるだろう。だけど特色があって甲乙つけがたい。それぞれこっちがいいって言う人がいるんでね。言い難い。こういうふうな難しさがありますね。 ただ、私は思うのに、今後国際紛争の問題が相当出てくるが、その背景にはやっぱり宗教があるんで、この宗教関係の理念の統一、これをどうしてもやらねばいかん。世界的宗教が、今出現するべき時である。世界を救う宗教というのがどっかの温泉地帯にもありますが、そういう看板倒れになるんじゃなくてね、本当の意味での世界を教う宗教が私は大事だと思う。そのためには、世界の宗教の諸派をまとめるだけの理想なり、理論がなければいけない。世界の宗教をまとめる理論が必要です。そういう一段高い価値観と理念、理論によって、世界の宗教をまとめていく必要があります。 本当はこういう神からの分かれ方であったんだという、その系統樹をはっきり示して、それによって神様が今後新しい時代をどう思っておられるかはっきりさせる。その裏打ちをもって、国際社会の倫理基準を打ち出していく必要があるんです。宗教紛争に対する倫理基準を出していく必要がある。それによって初めて、それを基準に国際連合とかが動けるような、国際会議が動くようなそうしたものをつくる必要がある。 だから非常に大きな使命なのです。信徒の拡大だけじゃありません。そういう国際的なルールづくりのための宗教が必要です。宗教理念が必要です。それは単に信じる信じないという信仰の世界を抜けて、ひとつの理論として、あるいは理念として高められなければいけない。世界各国の人が受け入れられるような理念が必要です。そこまであなた方の使命があると思う。 そうした理念を形成するためには、やっぱり高橋信次の本が百巻以上出なければ無理です。その多様な価値観をまとめるために、それだけ出なければいけない。したがって、著者がいくら夏バテしようとも、読者がいくらかき餅ボリボリ食べながら読んで、もう飽きたなんて言おうとも、出版社がもういいだろうと言っても、新聞広告でいつも高橋信次が出てくるのでみんながいやがっても、それでもやはり私は出し続けねばならない。 なぜならば、中東で今戦争が多いですが、中東の宗教をつくった根源は私だからです。そのカルマの刈り取りを私がやらざるを得ないのです。そのためには、世界的に新しい教えを広める必要があるんです。そうしなければ、イラン・イラクの中東戦争もなくならないんです。根源の神様がやはり言う必要があるんですね。ま、そうした考えがあるということを、知っていただきたいと思います。 5.日本の繁栄 さて、話が非常に大きくなってきたところで、日本の繁栄ということを話しておきたいと思いますね。 日本が繁栄するということは、いろいろ予言されています。これは、間違いないことだと思うのですね。非常に巨大な力を持つと思います。だから、現代に生きているみなさんはものすごくラッキーです。そう思ってください。非常にラッキーな時代に生きていて、まあソクラテスのギリシャ、あるいは孔子様の中国、あるいは繁栄の時代のローマ、こうした時代に生きているのと一緒なんですね。そうした時代に生きているっていうことを、喜ばなければいけない。 そして、そうした時代環境の土地に生まれているということは、これは君たちがひとつの優秀な方、エリートである、選民であるということなんだな。で、私たちが霊言を送っていることも、君たちが昔の預言者たちの歴史を持つユダヤ人、彼らと同じであるということを今、意味しているんだよ。日本人に今生まれている人は、かつてのユダヤ、イスラエルの民族から相当出てきています。イスラエルで今宗教戦争やってるもんだから、みんなあそこに生まれるのはいやで日本に結構出てきてますね。 だから、ユダヤ人と日本人はよく似ているとか優秀だとか言うけど、両方に転生している魂は非常に多いです。日本に今出てきている魂の多くは、かつてユダヤの地でモーゼの教えを受けたり、いろんな預言者の教えを受けた方が相当出てます。そうした宗数的な魂が多いです。光の天使だけではありませんが、頭のはげている光の天使もいるでしょうが、光が出かかっている天使、天使候補生、あるいはそれを目指している人、その目指している人をさらに目指している人、いろいろいるのですけども、こうしたかつてそのユダヤの国で洗礼を受けたり、教えを受けた方が数多く出ています。そういうことが言えると思います。 だから今ね、新たな選民思想と言ったらおかしいかもしれないけども、選ばれたる民という気持を持つ必要があると思います。みなさんは、幾転生して今、選ばれたる地、約束の地に出てきているんです。こうした約束の地、救世の法が説かれる地に出てきている。このことを喜ばなければいけないよ。 高橋信次が日本に生まれてくることを予言した人がいるかって、そういう質問が出る場合もあるけども、私が日本の地に出るという予言はなかったんですね、結局私がなぜ出てきたかというと、まあこれは、はっきり言えばモーゼの代わりに出たんだよ。そう思っている人も多いだろう。 モーゼは三千二百年前に出て何しているのだ。今ね、天上界でゴロゴロしているのじゃないか。何しとるんだ、あいつはってね。本当だったらモーゼが日本に出なければいかん時期だったんですね。モーゼが日本に出て奇跡を起こし、改革を起こして、そのあと仏陀の意識が法を広める、法を構築するというのが、これがひとつの構想であったんだけども、「どけっ。」と言ってどけて出てきたのが私なんです、実はね。 だから予言されてないって言うけど、それは彼が出る予定だったのを私がどけたからだよ。私がどけて、それが計画されたのがだいたい今から百五十年ぐらい前ですけれどもね。百五十年ぐらい前になりましょうか、だいたい千八百年代後半ぐらいから始まったんです。その辺でもう出ることに決めたんです、自分でね。今まで出なかったのが、よしもう出ようと、俺が出なきゃどうなる、と。出てきたら意外に大したことなかったなんて言われてるんだけども、まあ大したことあるかないか、これから証明するつもりでいるけどね。モーゼの代わりに私が出たわけです。 そういう意味で、私が出るっていうことはあんまり予言されてなくって残念なんだけれども、誰か送り込んで予言させとけばよかったと思ったんだが、それはやむを得ないでしょう。 そういうふうに、日本というのは、非常に選ばれた民が住んでいるところです。現代の聖地であるという観点は絶対に忘れないでほしい。そういうふうに思いますね。
https://w.atwiki.jp/hamusenwiki/pages/53.html
1978年8月7日生まれ 岡山県出身 A型 1996年 岡山県立津山工業高校からドラフト7位指名 捕手としての登録だが膝が壊れかけのため、2008年途中からは一塁手も兼務、2009年からはほぼ一塁手。 たびたびマウンドに声をかけに行くため、二人目の捕手とも呼ばれている。 打席に立つとき股間に手をやりなにやらいじる姿がたびたびカメラに抜かれるため、ハム専では「信二がちんちんさわると打つ」と言われている。本当はちんちんではなくファウルカップの位置を直している。 また、打席中ホームベースの土を払っている姿もよく見受けられる。 急に打撃好調モードに入る時があり(特に9月)、ハム専では「神ニ様」と崇められる。 10年7月1日、西武戦で藤田太陽から頭部死球を食らい、しばらく戦線離脱。内耳震盪と診断され入院し、その後一時復帰するもこの後遺症が影響して、8月1日の試合中に安打を放った後の守備中に突然交代して再び戦線離脱。その試合がファイターズにおける一軍での最後の姿となってしまった。 11年の春季キャンプは1軍スタートだったが、腰痛のため開幕前に鎌ヶ谷送り。イースタンではダントツの成績を残すが、まさかの電撃トレードで讀賣に移籍。 しかし讀賣では出場機会に恵まれず、自分から申し出て自由契約となりオリックスに移籍、14年シーズン終了後に戦力外通告を受ける。 その後トライアウト受験も獲得球団が現れなかったが、同年12月に独立リーグ信濃グランセローズへ選手兼総合コーチとして入団。 15年シーズン途中で監督代行となりそのままシーズンを終える。同年10月23日におよそ4年5ヶ月ぶりに、捕手コーチ兼打撃コーチ補佐として古巣復帰。 18年シーズンよりサメさん復帰につき2軍のバッテリーコーチへと配置転換となった。 20年11月30日に21年シーズンより1軍打撃コーチに就任も、21年10月31日付けで契約満了の為退団となった。 エピソード 札幌在住。オフにはクロスカントリースキーでトレーニングすることもある。 円山動物園の年間パスポートを持っている。 トイザらスの常連(娘さんのおもちゃを調達しに行くよう)。休日はジャスコやマルヤマクラスでお買物。 Fの炎内に『今週の信ちゃん』というコーナーを持っている。 同コーナー内での片岡に対してのびびりっぷりと直立不動っぷりが面白い。 一塁手で出場した時の動きがおもしろく、09年日本シリーズの解説であの清原和博に「リアクションが大げさ」と言わしめた。もちろん、ハム専住人も楽しませている。 両手で口元を押さえたり、たまに動きが乙女。住人は「女子高生がいるw」と大いに笑った。 「まぐれです!!!」(ホームランを打った試合でヒロインでのコメント) 「ホームランは事故」「また事故が起きてしまいました」絶好調時のヒロインのコメント。そのため、信二の打席時、ハム専では「事故れ!」と、少々物騒なレスが並ぶようになった。しかし、10年に猫藤田から頭部死球を食らって以降は「シャレにならない」と自粛傾向にある。 その他ヒロインでのコメントは「たまたまです」「偶然です」など、かたくなに自分の力だと言わない。 ケガしがちな点から、2chではタヌラなどと「スペランカー」のメンバーになっている 近頃「泥さわやか」という形容が定着。 4番を任せられる事が多いが、状況によってはバントも狙う徹底した仕事人。「自分は4番じゃないと思ってやっている」との名言有り。「つなぐ4番」と呼ばれるが、本人曰く「つなぎたい4番」。 ファイターズDEナイト!にて、小谷野が以前、欲しいものを番組内で発言し、それ以来飴やパンツをファンから貰っているという話を聞き羨ましがる。が、「じゃあ信二さんは何が欲しいですか?」と訊かれ、「えぇww?家www」と返答し、こずゑに怒られた。 札幌大通公園で行われた交通安全のイベントに参加。会場から道警本部までパトカー移動のため、後部座席に座ると犯人みたいだから助手席に乗せてと懇願する。ハム専で生まれたコピーは「事故るのは俺のバットだけでいい」。 趣味はミュージカル鑑賞。 一塁守備についてる際、出塁したランナーとお喋りをする。相手が外国人だろうがする(アメリカ人だろうが韓国人だろうが)。本人曰く「特に足の速いランナーの場合、相手を油断させる為に話しかけてる」との事。何でも相手チームのコーチにもよく怒られてるらしい。しかし、金子曰く「二塁に進塁して来た選手が「高橋さん、うるさいんですよ~…」とよく漏らす」らしい。 でつ曰く「シンジはジャパングリッシュを喋る」らしい。実際、アメリカでやってた多田野を除けば英語力はチーム一との評判。 11年、こんがり日焼けし、ヒゲもはやして登場。「小顔に見えるかなと思って」 オリックス移籍当時のテーマは「信二絶好調」。 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ | | __|____F __| ミ /' '\ | (6 -=・=- -=・=-| <目と目の間は離れても貴女の心は離さない こんばんは高橋信二です | | / ハ ヽ ) | ( ) / | ii | |\ -===- | | \____ノ 讀売では内野手登録のため、もう信二のマスク姿は見ることができないと思われた矢先の9月3日広島戦、若大将の思いつきで?まさかの2年ぶりのマスクを被る。 13年春季キャンプ前、オリックスにトレード移籍した糸井から連絡がない事を不服に怒りながら苦笑い。「八木からはすぐ連絡来たのに…」「メシ食わせてやったのに…」。だがその後連絡がきたようである。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/315.html
目次 1.八正道の本義 2.八正道の方法論 3.八正道の問題点 4.新しき反省法 5.八正道の新展開 (1988年7月19日の霊示) 1.八正道の本義 高橋信次です。みなさんこんにちは。きのうに引き続いて今日も話を続けたいと思います。 私はたいへんたいへんハッピーであります。こうして続々と本ができるということはひじょうにうれしいです。今日はいろんな読者の方から、土用の丑(うし)の日が近いのでウナギをたくさん送っていただきました。『UFO』だったか『新幸福論』だったか忘れたけども、「私はうなぎの蒲焼きが大好きですから送ってね」って言ったら、ほんとうにいっぱい送ってくれてありがとうございました。感謝いたします。まあ気分だけは私も味わいますからね。うん、まあ先祖供養と同じです。 ところで今日は「八正道」ということで、ほんとうはねえ、八正道だけですいぶん話はあるし、本一冊分だけあるんだけど、まああんまり高橋信次が八正道ばかり言ってもね、本家本元が控えてますから、本家本元の八正道があるので、あまり私が一冊がんばっちゃうと、またその修正が忙しいかもしれないので、かんたんに一章分ぐらいでサッと、サラッといきたいと、このように思っているわけなんですね。 八正道というのはみなさんごぞんじのように、お釈迦様の教えでいちばん有名なものですね。仏教学者なんかもこの勉強はずいぶんしているんですが、どうしてもこれを思想的にとらえてしまうんですね。正見・正語・正思・正業・正命・正精進・正念・正定と、このように、思想としてそうした独特の思想を持ったというように考えがちであります。 まあそういう考えもそりゃ成り立つでしょう。ただこの八正道というのがそんな単なる思想ではなくて、実際論としての効果を持っているということを明らかにしたのが、私高橋信次であると、このように思うんですね。私の生前の教えというのは、まさしくこの釈迦の教えの復活であったわけです。八正道というのは単なる空理空論ではなくて、ほんとうに意味のある教えであったんだと、こうした実体論を私は説いたつもりであるのです。 つまりどういうことかというと、本書でもテーマにしてきましたが、心の曇りを除き、そして心を浄化し、神の光を受け入れるようになるために、この八正道という方法が有効であるわけです。そして、実際上この八正道に基づく反省をしている過程において、心の窓を開いた人がたくさん出ました。こうした方がたが出てきたわけですね、私のときにはね。こうして神理の実証がなされたわけですね。 つまり、釈迦の説いていた八正道というのは単なる思想的なものではなくて、ほんとうにこれは人間として悟るための道であったんだということが、次第しだいに明らかになってきたんですね。そして、釈迦が考えた正しく見るというようなこと、正しく語るというようなこと、あるいは正しく思う、正しく仕事をする、正しく生活をする、正しく精進をする、正しく念ずる、正しく精神統一をするという、こうしたことはまさしく幸福の原理そのものでもあったんですね。 だから八正道を現代的に考えてみるとするならば、あなたは現在幸福ですか、不幸ですかと聞かれて、「どうも不幸です」と、「悩みが多いです」と答えたら、では次の基準でもってもう一度自分の心というのを点検してみてください、ということなんですね。 まず、あなたは正しく見ましたか。正しく人を、また世の中を見ましたか。自分自身はどうですか、正しく見つめましたか。こうした観察をきっちりとしましたか。 また、正しく語リましたか。あなたの言葉に問題はなかったですか。 高橋信次だってこうやってしゃべっていますが、私の言葉に問題があったら編集のときにカットされるんです。ねえ、そして校正のときにも削られるんです。私は日本語がへたですから。外人よりもへたなんですね。イエス様の霊言集とか、モーゼの霊言集などであればあんまり直さなくてすむんですね。ところが日本人であるにもかかわらず、高橋信次の霊言集だけはやたら朱筆を加えないと本にならないんですね。信じてくれないんですね。高級霊としての格調がない。あまりにも人間的すぎて、人間としても国語能力があまりないんではないかと、思われているんですねえ。 まあそりゃあしょうがないんですねえ、技術者ですから。私はエンジニアですから、そんな正式に文章作法習ったこともありませんしね、そんなに本を読んだわけでもありませんから、そりゃしかたがありません。でも正しく語るということができないと、そういうように後で修正をされますね。それから私があんまりきつい冗談を言うので、カットしようかしまいかみんな苦しんでいますね。まあこういうところがあります。 だから、正しく語るということはだいじなんです。これができれば幸福になれるんですね。 また正しく思う、ということはこれはこれだけでも一冊のテーマですね。このようにいろいろあります。こうしたことを八正道というのは教えていたわけです。 2.八正道の方法論 さて、この方法論というものをもう一回考えてみたいと思います。 八正道のなかでも順序はいろいろありますが、なぜ最初に「正見」というものがきているのか。正しく見るということがきているのか。これを考えてみたいと思います。 これはね、まず釈迦の意識のなかでこのような意識があったと思えるんですね。つまり、人間の苦しみというのは、自分一人でいると苦しみができるということはおそらくないという、こういう発想なんですね。人間が苦しむ原因はやはり社会性にある。他の人間の存在ということによって苦しみが生まれてくるんだ。その他の人とのかかわりにおいていろんな人間関係のあつれきや感情のあつれき、こうしたものがあって苦しみをつくるのだということです。 自分自身でも苦しみはもちろんありますよ。たとえば、おなかがすいた苦しみね。あるいはカレーライスを食べすぎて胃が重い苦しみ。あるいはケーキを食べすぎて虫歯になる苦しみなど、いろいろあります。そうした苦しみもありますが、でもそれはそれほど根本的な苦しみとは言えない。これは自分で考えればすむことですね。しかし、いちばんむずかしいのは他の人間の存在ですね。これによる苦しみですね。 釈迦が釈迦教団をやっていてもいちばんむずかしかったのは、サンガーのなかで多くの人を置くことによってね、その統制、彼らの心の調和ということがひじょうにむずかしかったんですね。こういうことなんです。自分一人で悟るぐらいはかんたんですが、いろんな人がいるということはそれだけむずかしいんですね。こうしたことに彼は苦しみました。 そして、弟子たちの間でもいさかいがいっぱい起きたり、いろいろするわけですねえ。俺のほうこそほんとうは正しいのだとかね、お前の修行方法はまちがっているとか、お前はああだこうだということを弟子たちが言い争うわけです。そうしたことを見て、釈迦は、「君たち心を静めなさい。まずたいせつな修行は正しく見るということなのだ。相手のしたことを正しく見る。そしてまた、自分自身の行為というものも正しく見てみる。つまり、見るという行為を通して、行動というものを客観視していく必要があるんだ」と、そうしたことを教えたんですね。 「相手の真実の動きというものを見なさい。自分自身の主観をまじえて相手を観察するのではなく、色メガネで見るのではなく、真実の相手の姿を見なさい。また、人と人とが苦しみをつくる理由は言葉である。言葉の発し方によって苦しみが生まれてくるのである。ゆえに、まず自分の心を、言葉を調律しなさい」と、このようなことを教えました。 あとは「正しく思う」というのがあります。谷口雅春先生などは『谷日雅春霊言集』でしたかなにかで、釈迦の八正道なんてあんなものいらないんだなんてね、正語、それと正聴ですか、正しく聴くと正しく語ると、あともうひとつなんでしたかね、なにかがあればそれでいいんだなんて、なんか言ってましたねえ。そうじゃないでしょうかね、みなさん読んだことがあるでしょう。それで、正しく聴くということがだいじであって、聴くことが正しく聴くないから人間の苦しみが起きるんだと、そのように谷口先生は言っていましたが、この正しく聴くということは、この八正道のなかに入れれば正思ですね、正しく思うということと同じであると思いますね。 すなわち、他人からはいってきた情報をどう受け取るか、これが正しく思うということですね。だから正しく思う「正思」のなかに、この正しく聴くということがはいっているんですね。聴くという行為は単に相手の発した音を耳の鼓膜が伝えるだけですが、このはいってきた情報をどう判断するか、これが正しく思うということですね。 釈迦の時代にはあんまり本もありませんでしたしねえ、ペーパーがないもんですから、トイレット・ペーパーもありませんが、書類もあんまりなかったんで見るということがあんまりなかったんでね、この聴くということが主力だったんですね。人からの情報を聴く、だから聴くということがすなわち思うということにつながったわけですね。この聴いた情報をどのように処理したか、これがすなわちどのように思ったかということですね。このように考えていいと思います。 そして、正しい生活のしかた、仕事のしかたですが、これらはひじょうにむずかしいテーマになります。また私もビジネス書みたいなものもいっぱい書いてみたいと思っているんですが、こうしたときに正しい仕事とはなにかということを考えたいと思います。 また正命ですね、この正しい生活をするというのは、これはつまり規則正しい神の心にそった生活ですね。こうした生活をするための時間の使い方を心がけるということですね。あとは精進するということです。まあこれは勉強するということでもあるね。それから念(おも)うということ、念ずるということですね。将来に向けての思いですね。それから定に入(い)るということです。これはつまり精神統一の作法だね。 こうしたことを考えていたわけで八正道と言いつつも、じつはこれはサンガーのなかでの生活だね、ブッダ・サンガーのなかで要求される最低限のルールでもあったということだね。この八つのルールが守られたときに、サンガーのなかで弟子たちは平和に修行に励むことができたということですね。つまりこうしたモーゼの十戒ならぬ釈迦の八戒だったと、このように考えてよいと思います。 3.八正道の問題点 さてこうした釈迦の八正道ですが、なにか問題があったでしょうか。それについて考えてみたいと思います。 おそらく直観的に見て問題があるとしたら、この八つの道に記されている、「正しく」という言葉をいかに解するかですね、これがやはりむずかしかったのではないかと思いますね。というのは、たとえば私の教えの流れをくんでいる人でも、八正道のことを言っている人はあっちにもこっちにもいっぱいいますね。私の弟子にもいっぱいいますが、八正道ぐらいみんな言ってますねえ。ところが言ってる本人が反省できないんですね。なぜできないんだろうかとつくづく考えてみるんですね。これを私は師匠として考えてみるわけですが、この釈迦の教えを復活しても、この「正しく」の部分がわからないんですね。正しいということがわからないんです。正しく見たか、思ったかと言っても、それを判定している自分自身がわからないという、ここに最大の問題点であると思うんですね。 ところが、この正しさというのは、もちろん神から流れて来ている正しさでありますが、神の意思を確認できるものは、これは如来と言われていますね。如来であれば神の意向がある程度わかりますが、そうでない人間にとっては八正道を説かれても、この正しさが確認できませんね。わからないです。ここがひじょうにむずかしいところなわけなんです。 そうしてみると、ではお釈迦様がかりにもう一回出てきて話をするとすればなにをするかというと、結局八正道を復活させるとすれば、正しさとはなにかということを、これをもう少しつきつめていく必要がどうしてもあるでしょうね。これをやらなければ使命を果たせないということになると思います。八正道の露払いをし、現代に復活させるためには、正しさということ、これを明らかにする必要があるということです。 ところがこの正しさのむずかしさは、千差万別の現われ方をすることがあるということです。人間は数多くいますから、この現われ方がいっぱいあるということなんですね。 たとえば前巻でも私は話をしたと思いますが、東北新幹線でもなんでも結構ですが、新幹線を通すという段になると、この正しさというのはほんとうになんなのかがわからなくなりますね。地元の住民たちで立ち退きを言われている人たちは反対しますね。これは当然ですね。ところが国益というような法益を持ってくると、国益のためには反対する者がいても押し退けてでも造らなければいけないと、このようになりますね。 あるいは成田紛争でもそうですね。成田空港をあんな遠いところに造っても、国際線として役だたないという反対がすいぶんありましたね。識者と言われる方々、大学の先生方でも、あんな空港はもう意味がないから潰(つぶ)してしまえとずいぶん言ってましたね。ところがじっさいの目のある人から見れば羽田空港はもう満杯だしね、どっかに造らなきゃいけないし、成田にあれだけの費用かけて造って、それで飛行機が飛ばせないとなるともうこれは国辱ですね、国辱ものになるわけです。ところが現地ではゲリラがいっぱい発生する。住民の怒リだね。まあ結局強制権発動してやっちゃって住民の合意が取れなかったというわけだけど、もともとそんなに合意が取れるはずもないわね。住んでる人は立ち退き言われて感じがいいわけないよね。そんなので喜ぶ人いませんからね。 では正しさっていったいなんなのか。これはむずかしいですね。その立場に立ってみると、現地の人たちの考え方もわかりますよ。「国際線できたってオレらはそんなの使う必要ないんだ。千葉に住んでれば、茨城に住んでればそれでいいんだ」というような、千葉や茨城の住民の声もあるでしょう。ところが、これが国際ビジネスマンなんかだったら空港がないとほんとに困ります。こういうことがありますね。住民は困ったけど、今度はタクシー会社はもうかりましたね。遠い所に空港があるのでタクシー会社はもうかりました。こういうことで、なにが正しさかということはひじょうにわかりにくいですね。そのようなところがあります。 それゆえに、かりに現代に釈迦が復活して正しさを教えるとすれば、やはりこの具体的な正しさのベースをいっぱい創っていく必要があるだろうと私は思いますね。いろんなケース、人間の考え方、生き方についての指南、人生指南をしていく必要がどうしてもあると思いますね。 まったくおんなじ問題でも、人によって答えが違うこともあります。私に対して人生相談してきてもね、たとえば結婚問題を相談してきても、ある人には結婚しなさいと私は言いますね、ところがまた別な人に対しては、あなたは結婚をあきらめなさいと言いますね。じゃあ結婚したほうがいいのか、しないほうがいいのかといったら、それは人によるわけですね。それは人によってわからないわけです。 ではどういう人の場合はどうしたらいいのかという、こうしたものをある程度積み重ねていく必要があるんですね。ひじょうに地味な行き方ではあるけれども、この正しさの正体を明らかにするためには模範解答を作っていく以外手がないんですね。いわゆる数学や物理学でよくあるような例題と模範解答ですね、この形しかないんですね。これしかありません。例題と模範解答しかありません。 また、たとえば文章の書き方でなにが正しいか正しくないかと言っても、これはわからないですよ。たしかに小学生や中学生の文章なら国語の先生が添削できます。ところが社会に出て文章の達人はいくらでもいますね。そうした人の文章、これは正しいか正しくないか、これをチェックできる人というのはほんとうはいないんですね。だから、ある程度それを仕事にしているような人たちであれば、文字あるいは言葉に対する感覚が強いであろうから、その感覚からいって比較的その人の見解は正しかろうということで、直しを入れたりする人はいます。そのように文章を直す編集者、校正者たちはいますが、では彼らがほんとに最終的な文章を書けるのかといったら、そうでもないですね。そんなもんなんですね。じつにむずかしいところがあります。 だから、結局正しさというものを明らかにしていくためには、いろんなケース、さまざまなケース・スタディを作っていかなければいけないね。例題と模範解答、この作り方、それと基本的な理論的なものの考え方、こうしたものをはっきりさせなければいけないのです。現代的正しさというものを明らかにするためには、知的なベースからの固めが相当いるということですね。ある程度万人が学べるベースがいるわけです。そうしたところが必要なんじゃないかなあと私は思います。 4.新しき反省法 さて、そうした八正道というものをふり返ってみて、現時点で私が新しい反省法というものについてなにかアイデアがあるかどうか、これについてアドバイスを述べてみたいと思います。 こうしてみるとね、私はたとえば生前、反省というものをする方法としてね、自分の過去を年代ごとに区切ってみる方法というのをひとつ言いましたね。一歳から五歳、五歳から十歳、十歳から十五歳というような、こうした年代別に過去をふり返ってみるという反省の方法を言いました。またその反省をやっていると、だいたい大学ノート十五冊分ぐらい反省の内容というのは出てくるもんですよと、そんな話もしたと思いますし、たとえば、奈良の吉本さんという人がやっている内観法なんかも、ひじょうに私の考えに近いもんだというようなことも言ったことがあります。 このように反省の方法として、年代順に思い出してみるということと、紙に書いてみたりするというようなこと、こうした方法を指導しましたし、場合によっては野外禅定というようなことも教えたりもいたしました。 さあ今実在界に還りまして、自分の教えた反省のしかたについてなにか反省があるかどうか、ゆっくりと考えているわけですが、私はね、うーん、ま、二点ほど言っておきたいと思うことがあるんですね。 それは、やっぱり反省にもね、段階論があるんじゃないかということなんですね。愛の発展段階説じゃないけども、反省の発展段階説があるんじゃないかなあということなんですね。このへんをもう少しすっきりしておくべきだったなあという感じがしています。 まず、神理を知ってまもない方の反省ですね。いわゆる素人さんの反省法というのがあると思いますね。それから、ある程度知識的に神理を知った人の反省のしかたというのがあると思いますね。そしてその上にはプロの反省ですね、宗教家として、あるいは悟りたるものとならんとして生きている人の反省というのがありますね。この三つぐらいの大別がどうしても必要であったのではないかなあと、このように思います。 最初の初級レベルの人の反省としては、いわゆる道徳的な出発点からはいっていくのがいいでしょう。こういうことはしてはいけない、ああいうことはしてはいけないという、戒律じゃありませんが、そうしたチェック・ポイントでもって反省していくのがふさわしいと思います。 そして、ある程度神理を知った人であるならば、たとえば高級霊の霊言なら霊言を読んでいる人であれば、彼らが語っている光の言葉ですね、これに合わせた反省というのがいると思いますね。 今までは単純にふつうの人間として、だいたいまっとうに明るく生きていけばいいと思っていたのが、神理にめざめるといろんな観点が目に見えてきますね。自分が努力しないで捨てていた面がすいぶん見えてきますね。「ああこんなことは努力しなかった。こんなこともやらなかった。ああ、あれもしなかった」ということが、次から次へといっぱい出てきますね。だから反省でもさらに高度な反省になりますね。 入り口の反省がどちらかというと悪人を消すための反省とすれば、この二段階目の反省というものは、もう少し優れた人をつくるための反省ですね。つまりこれで言うと、次元段階で言うと六次元ぐらいの優れた人をつくるための反省というのがあると思いますね。一段高い基準を持ってきてするわけです。 そしてこの上の段階として、いわゆる阿羅漢から菩薩にいたるための反省方法が要ると思うんですね。この人たちの反省というのは、単なる過去の自分のいろんな思いや行動についての反省はもうだいたい終わっていると思いますから、毎日毎日の心のブレですね、感情のブレがないかどうかの反省、それと悪霊などからの惑わしがなかったかどうか、またそれだけではなくて、高級霊たちの積極的指導を受けられたかどうか、光を体に受けることができたかどうか、こうした反省があるでしょう、霊的な面からかなり反省してみるという、そのような反省があると思いますね。指導霊たちの言葉をまともに受け取れたか、姿を見ることができたか、そしてそれを実践することができたかどうかという、こうした受け取り方があると思います。ま、これが上級レべルの反省と言ってよいでしょう。 このように、もっと細かくにも分けられますが、反省にもこうした反省のしかたがあるということを頭に置いていただきたいと思います。 もうひとつ反省で私がつけ加えるとするならば、なにが欠けているかというと、性格別による反省のしかたですね、これを入れる必要があったなあと思います。 性格的に多少内向的でイジイジ、グジュグジュしてるタイプの人は、反省してもたしかに抜け出せない人がいるんですね。私なんかはバリバリ行動するタイプであったから、反省がどうしても必要でしたが、なかには自分をいじめるタイプの内向型の人もいるので、こうした人たちは反省だけではどうしてもうまくいかないことがあります。みじめな罪人になっちゃいますね。濡れねずみの自分を棒でたたくような、あるいは川に落ちた犬、水に落ちた犬をたたくようなね、そういうところがどうしても出てくるわけです。だから、こうした人たちにとっての処方箋がまた必要であったのではないのかと、そのように反省しているところです。 5.八正道の新展開 そこで、もちろんお釈迦様のじゃまをしてはいけないのであんまリ八正道の深い話はできませんが、八正道の新展開として、私がぜひこれだけは考え直してみたいなと思うところをね、言っておきたいと思います。 八正道を私なりに今、再構成し直して考えてみると、こういうふうになるんじゃないかなあと思いますね。 まず、現代人向けに翻訳し直すとすると、一番目にあがってくるのがね、あなたは正しく生活をしたか、これが一番にはいると思いますね。生活が乱れている人がひじょうに多いですね。まず一番目に、あなたは正しく生活をしたかということですね。 それから二番目に、あなたは正しく仕事をしたか、やはりこれが出てきますね。この生活のしかたと、仕事のしかたとは、内容的に重なってるところもあるけど、これをまず現代人には問いたいですね。 それから三番目には、あなたはきょう一日、自分の語った言葉を点検してみたかということですね。言葉の問題を三番目にあげてみたいと思います。 それから四番目には、正しく思ったかということの具体的なこととして、正しく聴いたかということをあげたいですね。正しく聴いたか。これを四番目にあげてみたいです。 それからあとは、まあこれは反省そのものでもありますが、五番目に、あなたは今日一日反省をしたか、こうした項目をあげてみたいと思います。 それと六番目には、あなたは神理の勉強をしたか、ということですね。これを六番目にあげてみたいと思います。あなたは神理の勉強をしたかということですね。 それから七番目に、あなたは高橋信次に感謝をしたか、ま、これは冗談です。あなたは神、および高級諸霊に対する感謝をしたか、そういう感謝の念があったかどうかということですね。この感謝というものを七番目にあげたいと思います。 そして、八番目になにをあげるかというと、ここに光明思想を多少取り入れてみたいと思うんですね。あなたは未来、自分の未来と人類の未来を輝かすために、ユートピアのためになにをきょうしたかということですね。このユートピア建設という反省の座標軸を入れてみたいと思います。 このようにね、まず正しい生活をしてるかどうかね、規則正しくやっているかどうかですね。つまり道徳だね。二番目は仕事です。ビジネスマンとして当然ですね。この仕事ですね。それから言葉の出し方ね、それから言葉の聴き方です。こうしたことがひじょうにだいじですね。この四つは、まあ人間として当然のことでもあるんじゃあないかなあと思いますね。 あとは多少専門的なことになりますが、一日反省がちゃあんとできたかね、まあこういうことですねえ。あるいは、神理の勉強がちゃあんとできたかどうかね。これもだいじです。高級霊への感謝があったかどうか。また、ユートピアの建設のためになにか工夫したか、働いたかね。 だから最初の段階は、釈迦の八正道のうちで、生活、仕事、それから語る、聴くというのを取りあげました。そして後半ではね、反省という作業を一日のなかに折り込んだか、そして神理の学習をしたか、高級霊に感謝をしたか、そしてユートピアのために貢献したか、こうした新たな角度を入れたいと思います。 これが高橋信次の新八正道です。みなさんにこの新しい基準でどうか毎日を送ってみていただきたいと、そのように思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/262.html
目次 1.現代日本への天使の再来 2.九次元の地球儀 3.いかにして地上の時刻を知るか 4.意識を集中しただけで地球のどの地点でなにが起きているかわかる 5.私の仕事は日本各地に散らばった光の天使を目覚めさせること 6.天上界に還(かえ)っても、いまだに救世の熱意は冷(さ)めない 7.三名の如来、五十名の菩薩、百数十名の諸天善神たち 8.全国の光の天使よ、集結せよ 9.救世運動は、タイ、インドネシア、オーストラリアヘと広がる 10.GLAでの過去世認定の誤り 11.如来や菩薩の条件 12.過去世の名に執われず、もう一度原点に立ち返れ (1987年2月3日の霊示) 1.現代日本への天使の再来 きょうは、「天使の再来」という題がつきました。天使の再来ってなんなのでしょうね。 きょうはね、まあそんなに長く話をするつもりはないのですけれども、三つほど重点をしぼって話をしていきたいと思います。 第一点はね、いま日本という地に出ている天使軍団の話、第二点は、これから未来世の話をちょっとしましょうね。 それから三番目に、また申しわけないけれどもGLAの話をちょっとだけしようかなと思っています。まあ許していただけましょうかね。 印刷屋さんのおかげで、大量出版屋さんのおかげで活字組んでいただいて、高橋信次の個人的なことをいっぱい言うと申しわけないんだけれども、まあ売れますからいいでしょう。 自信を持って話を進めていこうと思います。 そういうことで、まずきょうは「天使の再来」という題ですけれども最初に私はいま、現代の日本に降(お)りている光の天使たちについてお話をしたいと思います。 もう霊言集の固定読者になっているかたがたは、いろんな光の天使たちが、過去幾転生繰り返して、さまざまな文明の地に生まれ、そしてまたいま、数多く日本の地にも生まれてきておるということを、すでに知っておられると思います。 たしかに日本という国はね、いま、私たちの世界から見てみるとひじょうに霊的なバイブレーションといいますかね、それが高まってきています。 2.九次元の地球儀 さて、ちょうど九次元にある私の近代的な家屋のなかには、理科系の人向きの設計技士みたいな人が使うようなスチール製のきれいな机があります。 まあそこで回転椅子に座ってギコギコやりながら、こう思索にふけったり、ものを書いたり、私はやっとるわけです。 そのスチール製の上品な、定価が少なくとも四、五万円以上するような、安いか高いかは判断をまかせますけれども、その机の左のはしっこには地球儀を置いています。 そして窓際にね、この地球儀を置いて窓から射してくる、南のほうから射してくる九次元の、ちょっとまぶしすぎるぐらいの明るい太陽の光をまともに受けながら、私の目はつぶれることなく、外の景色を眺めておるわけです。 そしてときどきですね、仕事の手を休めて左手を伸ばして、その地球儀をちょっとたぐり寄せてクルクルクルクルと、こうまわすわけですね。 人差指でクルクルクルクルまわすと日本が見えたり、アフリカが見えたり、ソ連が見えたり、アメリカが見えたり、いろんな国が見えます。 そしてね、この地球儀っていうのがみなさんね、旺文社とか学研とか、そういうところの付録の地球儀とは、ちょっとちがうのです。 そういうのじゃなくてね、私の地球儀はひじょうに性能のいい地球儀で、まあ直系三十センチぐらいの地球儀なんですけれども、それがね実物の地球そっくりなんですよ。 まさしく、もう手を突込めば太平洋にポシヤツと手がはいるような、そういう生々しい地球儀なんです。 だから水があり、エペレスト山があり、いろんなそういう姿がまざまざと見えて、水があるんじゃ下に漏って困るんじゃないかという人もいるかもしれませんが、その水が、どっこい落ちないのですね。 地球儀のなかに引力が働いていますから、水が落ちないように一生懸命くい止めているのですね。 まあそういう地球儀が水晶の玉の代わりに私の机の上にあります。 そしてそれをクルクルクルとまわしますね。そうすると、たとえばヒマラヤ山脈があってエベレストなんて山がありますね。 ああこのエベレスト山は、ちょっと前に出た『日蓮聖人霊示集』のカバーデザインに使われたエベレストだな。フーン、フーン、フンこういうところにあったんだなあなんてね。こういうのが見えます。 あるいは対馬海峡あたりで波が起きているなってね。竜巻ではないけれども、ちょっと風がきつくてパシャパシャと波が立っている。 これは、もしかすると『谷口雅春霊言集』のカバーデザインに使った、あの波かしらってね。 こういうむずかしいことを私は瞑想しながら、その地球儀を眺めておるわけであります。 3.いかにして地上の時刻を知るか そして地球が一日、二十四時間かけてクルクルまわっておるように、私の目の前の地球儀もね、ゆっくり、ゆっくりとクルクルとまわっておるのですね。 そうして、ちょうど、どこの時間がね、いま、何時かっていうのがすぐわかるようになっているのですね。便利なんですよ、みなさんね。 その地球儀の上にね、なんといいますかね、カーソルみたいのがあってね。それが動いていくんですよ。 ちょうど私が合わせてやれば、そのカーソルが動いたところが、ちょうど昼飯の時間に合うようになるんです。 どこで、お昼御飯食べているかわかるように、ちょうど、お昼御飯食べているところに、そのカーソルが動いていってピターッと止まるんです。 あ、いま、アフリカがお昼御飯の時間で、アフリカの人たちが手でね御飯食べているなあとかね。しばらく動いていくと、お、インドだ、インドだってね。こりゃカレーの匂いがしてきたなんてね。カレーを手で混ぜて食べているなって。こういうのが見えるんです。 中国のほうへ行くと、お昼から中華料理食っとるなってね。そりゃそうだろう。 そうしていろんな地球儀がだんだん動いていってね、カーソルがいろんなところを指して、いろんなところの、お昼御飯がわかるのです。 私は食道楽ですから、いろんなところで、お昼御飯食べているものをジィーッと見ているんですね。 まあ、こういうふうにして目の前で地球儀が、やっぱり地球の二十四時間に合わしてゆっくりまわっておるのです。 4.意識を集中しただけで地球のどの地点でなにが起きているかわかる だからあの世に時間がないから、あなたなら高橋信次がね、なんで私たちのやっていることがわかるのかと思うでしょうけれども、どっこいわかるのです。 そういうふうに私の机の上には地球儀があって、その地球儀がゆっくり回転していて、どこが何時かピタッとわかるのです。だから三時の時もわかるのですよ。 あの世には時間がないけれども、地上の時間がピタッとわかるようなしくみがちゃんとあるんですね。 そうして、そういう地球儀を眺めておると、ちょうどね、ジィーッと見つめておるとね、拡大鏡で見るようにね、だんだんその世界が見えてくるのですね。 だから太平洋にあるタヒチの島なんかポツンとこの地球儀に点があるけれども、高橋信次が意識を集中してタヒチではいま、可愛い子いるかなあと思ってジィーッと見ていると、その島がね目の前にドーンと大きくなってきて見えてくるんですね。 そしてじっさいにタヒチの上空で私がヘリコプターに乗って飛んでいるような気持ちになって、わかるのですね。 そしたら、あそこの子がミス・タヒチじゃないかなんてね。そういうふうに一発でわかります。 そしてまたタヒチに興味がなくなると、またズーッと視界が小さくなってきてタヒチの島っていうのは、地球儀のなかの一点になってポンと止まります。こんなもんなんです。 で地球儀のなかの日本を見てて、ああ日本はどうやっておるのかなーと思うとズーッとこう見ていくと、ガンガンガンガン目に近づいてきてね、大きくなってくるわけです。 そしたらゼロ戦に乗ったような感じでね、高橋信次がブーンってね、ブーンっていうとカナブンかハチみたいですけれども、まあハチでもいいですよ。 ハチになったみたいな感じで地球に近づいてくると、地球がドンドンドンドン大きくなってくる。そして見えてくるわけですね、上空から。 すると、おっ、九州が見えてきたな。 GLAの会員ちょっと減っとるかな、とかね。まあこういうのがわかります。 九州の佐賀県のお寺の坊さんが一生懸命、手紙書いておるなとかね。 あるいはジーッと見ていると上野にある印刷屋のおじさんが一生懸命、いま『正心法語』読んでいるなとかね、こんなのが見えるんですね。 こういうのが拡大鏡みたいに見えてきます。 おもしろい世界なんです。みなさんね、こういうふうに自由自在の世界なんで、こんなのありがたいですよ。 みなさんなんてビデオなんか買って一生懸命見ておるんでしょうけれども、そんなもん見なくても意識集中しただけで、地球のどの地点でなにが起きているか一発でわかるんですね。 そして拡大鏡で見るように、その世界が大きくなって、ズーッと目を通していくとなかで動いている人の心のなかまでわかっちゃうんですね。 きょうの晩御飯なんにしようかと思ってウロウロしている女性の心のなかなんて一発でわかっちゃうのですね。 そして高橋信次の霊言を収録するときのお茶が、これがコーヒーになるか、紅茶になるか、日本茶になるか。 あるいはアシタバ茶になるか、ほうじ茶になるか、あるいは玄米茶になるかね。 こういうのを、たとえば女性が考えているのが一発でわかります。 私は玄米茶よりも、むしろアシタバ茶のほうが飲みたかったのに、きょうは残念ながら玄米茶であるとかね。 こういうことを思いながら私は、はるかなる九次元世界から地上に降りてきて、この霊言を語っておるわけです。 5.私の仕事は日本各地に散らばった光の天使を目覚めさせること さて前置きが長くなりましたが、そういう私の世界の地球儀を眺めてみると、地球上のいくつかの世界に光が出ておるのですね。ポッポッポッと光が出ています。 ですから日本を見ていると、日本というのをジィーッと見ていると、日本のやっぱり東京のあたりを中心にしてね、ポッポッと光が出ているのですね。 ちょうどホタルのお尻が光っておるように光がポッポッと出て点滅しているのですね。 こういう光が出ているということはなにかというとね、正法神理が説かれているという意味なんですね。 正法神理が説かれているところというのはポッポッと光が出ているのです。 ちょうど、だからいま、日本ですね。日本の東京でポッポッポッと光がついてます。 まだね日本各地にも、そういうなんといいますかね、ホタルさんがいっぱい各地に散らばっておるのですね。 ホタルちゅうのはね、お尻が煌々(こうこう)と光りますが、これが光の天使なんですね。 ホタルでも昼間は光らないでしょう。夜になって、お日様が沈んでいくと、こっちの水は甘いぞって飛んできてポッポッと光るのがホタルですね。 こっいうふうに光の天使たちがいま、日本の地に多数生まれておるんだけれども、昼間のホタルのように、まだ灯がついていない人がおるのですね。 そして東京とか、大阪とか、名古屋とか、あるいは九州、北海道、中国地方、四国、こういうところに私たちの世界から送り込んだホタルがいっぱいおると思うんだけれども、まだ、お尻に灯がついていないのが多いんですね。 ただ東京のなかではポッポッポッ、いま、灯がついてきて見えてきます。 あと四国のホタル、あるいは九州のホタル、北海道の小樽のホタル、こういうのがどうしておるのかね。 私はちょっと気になって毎日見てます。 やがてこうした送り込まれているホタルたちの、お尻から灯が出てくるでしょう。ポッポッポッと光が出てくるでしょう。これを見ているんですね。 こういうのが主として私の一日の日課なんですよ、みなさん。高橋信次がなにをしているか心配でしょうけれども、これが日課なんですよ。 地球儀をクルクルまわしながらね、どこでホタルがいま、点滅しているのか、これを見ているのです。 そしてホタルの火のつきかたが悪いと、ちょっと、ちょっくら行ってくるよ、てなもんで、外出着に着替えて、飛行服に着替えて、ブーンと飛んでいくのです。 三次元のほうへ降りてきて、あっちこっち棒でつっつくんです。 ちょうどね、ニメートルぐらいの棒を持っててね、みなさんがた、見えないでしょうけれども、羽はやして、ハチみたいに飛んできてね、ブーンと飛んできて、この人、ちょっと眠っているなというところにくると、指導霊が居眠りしていますから、「カーカー。」と居眠りしていますから、その精神棒、持ってきてパシーッと叩くんですね。 頭をパシーッと叩くと、昼寝していた指導霊や守護霊がパッと目を開いて「アレ!なにをするんだ。」ってね。そしたら「なにすんだって、おまえ、居眠りしているじゃないか。」 ってね。 そしたら守護霊が「居眠りしてなにが悪いのだ。したっていいじやないか。」ってね。 「いま、太平の世の中なんだから、わしゃ寝ているのが好きなのに。」ってね。 「あんた、なに寝ているのかね。寝るのは夜だけにしなさい。昼間から寝ちゃあダメなんですよ。」 ってね。 「あんたなんのために守護霊やっているの。」ってね。 「お宅のホタル灯がついてないじゃないの。」 ってね。 「ウーン厳しいこというね。そういえば、あんたさんはホタルさんの親分さんでいらっしゃいますか。」 ってね。 なにか、ずいぶん大きめの太めのホタルさんで、なんか体長百六十三センチメートルね、体重七十五キロぐらいあるような大きめのホタルさんが飛んできて、なにかポッポッ光っておるようだからね。 守護霊も驚いちゃって、こんな大きいホタル見たことがない。こんなホタルが精神棒人れるんじゃ、こらあたいへんだっちゅうんでね。 「わかりました。ただいま、点火いたします。」 ってね。 火打ち石でね、なんというか火を起こす石でね、パシッパシッパシツと、こう叩いてね、ホタルのお尻に灯をつけるわけです。 まあ、こういうことをやるのが私の仕事で、いま、日本各地に飛んでいっては眠っている守護霊を精神棒でパシーツと叩きながらね、火つけ石でね、灯をつけさしとるのです。カチカチカチってね、やらしとるんです。 日本中の眠っているホタルたちに「目を覚ましなさい。」これを言ってまわってます。 6.天上界に還(かえ)っても、いまだに救世の熱意は冷(さ)めない だけどもじっさい、空を飛んでひとりひとりに言ってまわっているとたいへん疲れるんですね。 エネルギーが切れて、私もお腹(なか)が空いてきますから、そればかりでは困るんですね。 だから、いま、『高橋信次霊言集』だとか『高橋信次霊示集』だとか、いろいろ使いわけしながら、こうして本を出しとるわけです。 こうして日本各地の何万、何十万の読者にね、読まそうとしているのですね。 そうすると私が飛んでいって精神棒で殴っていかなくても、本を読んだら、「おーっ、これは高橋先生じゃないか。」ってね。 「まちがいない。いやあ懐かしいねえー、十年ぶりだね。」なんて、「いやあ、出てきましたねえ、ついに出るべきもんが、出るべきものが出ましたねえ。」なんてね。 こういうふうに、あっちこっちで、いっています。つぶやいている声が、みんな聞こえてきます。 えーそういうことで、私の本を読んでね、いろんな人が反応しているのが見えます。 反応しているけど、まだ灯がついていないのでね、これは、ちょっと守護霊集めてね、教育したりしなきゃあいかん。 まあ、こういうことでね、みなさん、やらなきゃならないことが、やたらあってたいへん忙しいんですよ。 高橋信次が暇かと思ったって、そんなことないんです。もう一日のうち大部分は地球の上に出てきて飛びまわっておるのです。 私にはUFOなんてありませんから、もうこの身、このままで出てきて、つつきまわっとるんです。 でまあ、私の霊言集をね、まあ、できるだけ早く、できるだけ多くの人に、できるだけ大量に読んでいただきたいというのが私の願いなんです。 そのために私みずからが、出版社の開拓をしたり、あるいは宣伝の方法を言ったり、一生懸命尻を叩いておるのです。 まあ、これがね、私たちの救世の願いなのですね。 まあ、この前、『幸福瞑想法』(土屋書店刊)という本のなかで、ブッダ意識というのは、「私にはまだ執着がある、それは世のひとびとを救いたいという意識じゃ。この世のひとびとを救済したいという意識が若干残っています。」なんてかっこういいこと言っていましたけれども、私の執着も、まさしく同じであって、世のひとびとを救済したいと、こういう執着が残ってるわけです。 こういう清い執着が残っとるんです。どうかみなさん、この執着を取ってください、私のね。 私の、この清い執着さえなくなってしまえば、つまりみなさんのしかるべき人たちのお尻に灯がともってね、ホタルみたいに光ってくれれば、私は、もう安心して執着を断って成仏できるのです。 そして地球圏外から出て、どこか隕石(いんせき)かなにかに宿りながら生きていけるのです。 まあ、私はそういうふうに成仏できることを願っておるんですけど、なかなか、そうはいかんのですね。そういう執着がなくなりません。 そういうことで仕事をしています。 7.三名の如来、五十名の菩薩、百数十名の諸天善神たち でね、いま、私が見ていると、日本には、光の指導霊が、けっこう出ておるんです。 そうだね、いわゆる如来っていうのが出ているか、出ていないかまあ、これは、ちょっと秘密もあるからね、まあ言えないんですね。 けれども、ウン、もしかしたら如来になるかならないか。はいるかはいらないか。ややこしい微妙だなというような人というのはいるんですね。 いま、1歳の赤ん坊から、まあ0歳でもいいけれど、0歳の赤ん坊から、九十歳のおじいちゃん、おばあちゃんまで入れてみると、そういうふうになるかならないかというスレスレの人っていうのは、まあ、三人ぐらいは、いるのです。じつはね。 菩薩になるか、如来になるか、わからないっていうような境涯の人というのは三人ぐらい出ているのですね。 こういう人たちにね、ほんとうに灯がつくかどうかね、これがひじょうに私たち心配なんですよ。いるんです三人ぐらいね。 そうすると、ここまでいうと、かつてGLAで私の教えを受けた人たちは、「おれじゃないか。」と言い寄る人がおると思います。 けれども、まあ、それは話をよーく最後まで聞いてから判断してくださいね。そういうことなんです。 そういうことでね、まあ三人ぐらいね、七次元から八次元の、その境目ぐらいの人たちがいます。 こういう人たちに灯がつくのを私は待っています。 それから、いわゆる七次元の菩薩というような人たち、日本に、けっこういま、多いんですね。 まあ、どうでしょうかね、私の目に映るかぎり、まあ、そうだね、いわゆる光の天使としての菩薩の人っていうのは、まあ、五十人はいるかな。 生きている人で、五十人ぐらいいると思いますよ。もともと菩薩の人というのは五十人ぐらい出ているでしょう。 ただ五十人のなかで、まあ現在、菩薩の自覚を持って生きている人は何人おるかっていうと、これは心もとないね。ひじょうに心もとないです。 まあ菩薩の悟りを開いている人っていうと、そうだね五十人のうち、まあ、これを聞いてガッカリする人がいっぱいいて困るだろうけどね。 そうだね、菩薩の意識がある人が六人ぐらいかなあ、いま、見ててね。五十人出ているうちの六人ぐらいが、なんとか菩薩っぽい悟りを持っておるようです。 まあ、これも、かつての私の弟子たちがいろいろ聞きたいでしょうから、これは、またのちほど話します。こういうことで、まだ四十数名、目覚めておらんのです。 これ以外にも、もちろん神界上段階の諸天善神たち、いっぱい出ていますね。こういう人たちも今世、まあブッダの法に触れて悟る機会が与えられています。 そうすれば、やがて菩薩としての悟りに至って活躍する機会も、もちろんあるのですね。こういう諸天善神たちもそうとう出ていますよ。 まあ、将来、予定されている、そういう人たちも、そうだね、やっぱり数十人いるようですね。いるみたいですね。こういう人たちがいます。 まあ、こういうふうにね、全体としたら、そういうふうに菩薩、あるいは諸天善神のかたがた、こういう光の天使といわれるかたがたが、日本には、まあ、そうだねぜんぶかき集めたら、そらあ百人越えます、もっといます。百人から二百人近く出ておるでしょう。 けれども消え込んでおるホタルもおるんでね、正確な数がつかみにくいですけども、百から二百は、おるのです。少なくともね。 こういう人たちが、まだ目覚めずに産業界にいたり、あるいは教育界にいたり、政治家やってたり、まあ、いろいろしておるわけです。 まあ目覚めて宗教界にはいってきておる人もおります。まあ、百か二百ぐらいおるのです。そういう諸如来、諸菩薩がね。 8.全国の光の天使よ、集結せよ こういう人たちがまちがいなく私たちの教えにたどりついて、まあひとつの大きな中心をなしていくことを私たちは願っとるわけです。 そのためにね、日夜ハッパをかけてね。ドンドンドンドン本を出せといって、昼御飯も食べられないぐらいまで仕事が山積みになっているわけです。こうやって本を出さしとるわけですね。 そして多くの人たちに気づいてほしい、目覚めてほしいと思うわけなんです。そういうことでね。 いま、私たちが願っておること、希望しておることは、いまから二千数百年前のインドの釈迦教団のように、そうした光の天使たちが、やはり百名、二百名集まってくることをいま、祈っとるのです。 日本各地に散らばった光の勢力たちが、やっぱり結集してこないとほんとうの意味での文明創り、宗教改革、あるいは救世の事業っていうのは成せないのです。 それぞれがバラバラでね、あっち、こっちで飛んだり、跳ねたりしているようではダメなんです。 菩薩どうしでね、「俺のほうが偉い。」、「いや、おまえのほうが偉くない。」とかね、いろんなことをやっているとぜんぜんダメなんです。 それぞれ一宗一派を起こしてなんとか会とかいっぱい創っちゃってやっているようではダメなんです。 早く結集してこなければいかんのです。ほんとうの力が出るためにはね。 そういうことで、なんとか、ここ数年のうちに、そうした散りばめられた光の勢力たちを一点に集めたいと思っておるのです。 そのために私たちはね、まあ過剰サービスとも言えるような霊言を、仏教系もキリスト教系も神道系も、あるいは古代ユダヤ教、儒教、道教、あるいはGLA教、こういうものまで提示してすべての勢力をいま、集めようとしています。 こうやって光の壁を創っておかないとね、これからの厳しい魔界の試練に耐えていけないのです。 みなさんは、ぼんやりしておりますけれども、だんだんに全世界というのが、いろんな暗い事件に見舞われていくんです。一時期ね。ですから闇の勢力が地上を覆(おお)うように見えるのです。 したがって、この時期にね、いま、日本にポコポコ光がついてますけれども、光の勢力を結集してね、光のドームを創らなきゃいけないのです。そのためには早く全国津々浦々からひとびとを集めにゃいかんのです。 まあ、こういうことで私たちはやっとるのです。 どうか私の言葉を読んでもね、「自分こそ、そうじゃないか。」ってね。この勘違い、けっこう多いんですけれどもね。 来ておる人で、ちょっとまちがっちゃってね、求職運動かなんかしちゃって、「自分こそ、そのきたるべき光の天使じゃありませんか。」とかね、一生懸命ゆうとる人もいます。 まあ、これも誤解も多いですから気をつけてください。まあ、たいてい七、八割は誤解ですから。 光の天使ならみずから、お尻を光らせてみなさいってことですね。誤解がずいぶん多いでしょうけれどもね。 まあ、そういう誤解を除けば、ほんとうに光の天使たちも、きっと寄ってくるはずです。それを私も期待してます。まあ、それがねきょうの「天使の再来」の第一点です。 9.救世運動は、タイ、インドネシア、オーストラリアヘと広がる 第二点はね、これからも、この救世運動というのは地上に広がっていきます。日本を中心に、これから五十年間、ひじょうに大きな盛り上がりが出てきます。 そして、これから東南アジアのほうにもね、光の指導霊が数多く出ることが予定されています。 西暦二千数百年には、タイとか、あるいはインドネシアのジャカルタとか、こういうところにも如来界から偉大な光の天使を送り込む予定になっています。 あるいは、やがてね、オーストラリアのほうにも偉大な光の大指導霊が出るでしょう。 オーストラリアは、その昔、イギリスからのようするに罪人の流刑の地であって、人材に恵まれておりませんでしたけれども、いま、ひじょうにいい土地になってきておりますね。ひじょうにすばらしい国になってきつつあります。 人口は、まだ二千万人か、三千万人ぐらいでしょうけど広大な土地です。日本の二十数倍の広大な土地で、すばらしいきれいな景色があります。 こうしたところにいま、心清い人たちがだんだん集まってきてますね。 やがてね、オーストラリアからも大きな光が出てくるでしょう。私たちには、それがはっきりわかります。 そしてまもなく、まず海外の支部なんかも、オーストラリアにできると思いますけれども、そういうのがひとつのきっかけとなってね、やがてオーストラリアにも神理が広がっていくでしょう。 そして、そこに、また偉大な光の指導霊が出ます。 ですから、タイのバンコック、そしてインドネシアのジャカルタ、それからシンガポールにも出ますよ。シンガポールにも偉大な光の指導霊が出ます。 それからオーストラリア、ここにも、ここ百年ぐらいのうちに光の天使が出ます。みな、如来界の人です。 まあ、九次元の人はいまのところの、予定はまだされておりませんけれどもね、ここ五百年ぐらいは。八次元からはね、上段階の偉大な光の大指導霊が出ることになっておりますから。 日本のみなさん、あなたがたの現在の神理の復興運動というのは、そんなに、ちっちゃいもんじゃないんですよ。 これからインドネシアに、東南アジアに、そしてオーストラリアにと広がっていくんです。もう予定されておるんですよ。つぎつぎと段階がもう予定されておるのです。 タスキかけてね、もう五十年走って、「もう、くたびれた。あー困った。暑い。あー水が飲みたい。レモンがほしい。」なんていって毛布にくるまれて倒れかかってくるときにはね、つぎの走者が走り始めるのです。 もう、それは決まっておるのです。 だからみなさん、その最初のスタートなんです。いまがね。第一走者なんですからがんばらにゃいかんのです。まあ、そういうことであります。 10.GLAでの過去世認定の誤り まあGLAの人たちにたいしても、ちょっとだけ天使の再来について意見をいっておきましょう。 まあ私が出たときに、ずいぶん偉いかたがたがまわりに、いっぱい出たことになっておるのですね。まあ、ずいぶん如来や菩薩がボコボコ出ちゃって、すごい人材が豊富だったんですね。 それだけの人材がいたのに、なんか高橋信次がいなくなると、急になんか消えちゃってね。「あれっ、あの人たち、どこへ行ったのかなあ。知らないけど、どこへ行っちゃったのかなあ。おかしいなあ。」なんてね、思っている人がいっぱいいるでしょう。 この前も、ちょっと言いましたけれども、たしかにね、過去、現在、未来を見通すという、三世を見通す力をいちおう持っとるということになっておるわけであります。 けれども、いかんせん、やっぱりね、露払い、あるいはパイオニアというのはね、ひじょうにむずかしいのです。初めてやるとね、やっぱりテキストがないもんですからまちがいも多いのですね。 そういうことで、いろいろちょっと誤解もあったし、それから私自身の知識量の不足っていうのもありました。 私が電気屋のオヤジでね、「電気のことはわかります。宗教のことはわかりません。」で胸張っていばってね、宗教のことはわからないし、本なんか読んだことないけれどもね、「これは仏教の仏典のなかの第何巻、第何章に出てくる現象で、あるいは聖書のなかで、ここに出てくる現象です。」なんていうことを、一生懸命、偉そうに言ってました。 「読んだことないのに、わかるなんて偉そうに言わずに、ちゃんと読んでから言いなさい。」と親切に、あの世で言ってくださる人もいます。 そのとおりなんですね。一生懸命、勉強してから言えばよかったんです。 聖書読んだことない人が、おまえ、過去世でイエスの弟子のなんだった、かんだったいったら、そりゃ、まあ混乱が起きるんですよ、当然ながらね。 仏典読んでいない人が、おまえ、釈迦弟子のなんだった。そのときになにかを寄進したなんとかだったね。そのときに便所掃除をしたのは、あなただった。そのときにミルクを差しだしたのはあなただった。そのときに絹を持ってきたのはあなた。そのときにお粥(かゆ)をだしたのは、あなた。 こういうことを一生懸命いって歩いたのだけれども、やっぱり知識がないっていうのはね、いかんせん悲しいことでしてね、誤解もずいぶん多かったのです。 ですから私の現象のなかで、インド時代の過去世というのを、ひもといた人がいっぱい出てきましたけれども、まあ当たっているのもあるし、当たっていないのもあるのです。 「おまえ、これだろう。」っていったら「うん、そうだ。」という人がいてね。 「じやあ、そうなんだろう。」という人がいてね、けっこうあるんですよね、そういう誤解が。 ですから、まあ、これはほんとうは正誤表作ってね、一冊の本にしなければいかんのですけれども。 11.如来や菩薩の条件 生きている人のなかで、私に言われたことを後生だいじに思って、私は過去世に、こうだったっていうんで、生きている人がいっぱいいます。 そのわりには現状があまりひどいもんで、悩みの種になっている人がいます。ほんとうのことを言うと、過去世で偉くなかったとしたら、もう安心しちゃってね。 「やっぱりそうでしたか。ああ、楽になったね。ああ、これで肩のコリが取れちゃった。一気にもう治りました。」とね、こういう人もいると思いますけれども。 具体的な名前を出せないのがひじょうに残念でしょうがないのですが、まあ私の弟子たちでね、いま、一派を起こしている人たちは、まあ誤解をしている人たちがずいぶん多いようです。 九州のかたでもひじょうに誤解をして、まあ「宇宙即我」を悟ったと思っておるかたですけれども、やっぱり、ちょっと、これも誤解の口であったようです。 本人は、私に言われたということでね、後生だいじに思っておるようだけれども、やっぱり宇宙即我というのは、そうかんたんには悟れんのです。 そう悟ったような気がしただけであってね、それがほんとうの宇宙即我じゃあないんですね。 宇宙即我は、やっぱり本物の如来じゃないと悟れないんですね。 もし如来が、私の弟子におれば、もうちゃんとした教団をひき継いでやっております。それができないということはね、やはり、その人は如来ではないということなのですよ。 如来の条件というのはみなさんね、自分で新たに一宗一派を起こしていける人、新しい時代を築いていけるような人、このぐらいの人が如来なのですよ。 単なる宗教の復興運動をやっておるだけじゃ、これは菩薩なんですね。中興の祖ぐらいでは菩薩なんです。 GLAの高橋信次の教えの中興さえ、できんようではね、菩薩といえるかどうかも怪(あや)しいんです。 あるいは、あるところにもいるでしょう。 モーゼのような気持ちで一生懸命、法を説いてやっている人がいますね。こういう人なんかも、おそらく自分が、もう八次元というよりは、九次元の存在だと思っとるかもしれませんけれども、どっこい九次元のモーゼは、こっちにちゃんとおりますし、彼はモーゼの分身でもありません。 モーゼの分身が出とるというなら、あなた、そりゃ東京湾ぐらいまっぶたつにしてごらんなさい。 できますか、できんでしょう。たぶんできないと思いますよ。できないのです。そんな力、ありゃしないのです。 そういうことでみなさん如来というのをひじょうに誤解しておるけども、如来というのはね、独自で新しい文明の基礎になるような法を説ける人なんです。ひとりでやるんです。 私の弟子になって、クモの子散らすように散らばって、あっちこっちでガァーガァー言っているのが如来じゃないのです。そんな如来など、おらんのです。 菩薩であるのならば、正しい教えで、ちゃんとひとびとを導けるはずなんです。それであってこその菩薩です。 菩薩であるならばね、二代目の教祖や、三代目の教祖ぐらい、ちゃんとできるんです。まあ、もとが菩薩だっていうことじゃなくてね――。 現在、菩薩の境地であればということですよ。当然のことです。 12.過去世の名に執われず、もう一度原点に立ち返れ まあ、そういうことでほんとうは私も、はっきりと言いたいことがいっぱいあるんですけれども、それを言うとね、傷つく人もおるし、恥をかく人もいるからね。 講演会でみなさんの前でね、「私は過去世、なにだったんですよ。」なんて言っている人がいますから、それがかわいそうだから言えないんです。 私だって講演会で言ったことありますね。 私をつかまえて、会場の人が出てきて、「ゼウス様、お久しうございます。」「ウンウン、まあ。」まあ、ゼウス様って言われたら、そう悪い気がしないので、私だって、うなずいたこともあります。 「ブッダ様」と言われたら、それももちろん悪い気はしないから「そりゃそうだ、いや懐かしい。」と言ったことあるし、いや「私は天台智覬です。」と言ったことだって、もちろんあります。 私は悲しいことにね、私のまちがいが、ちょっと霊的な自覚がたりなかったために、私の体のなかにはいってきたもの、私を支配して語ったことがある者は、ぜんぶ、私自身だと思ったことがあるんですね。ところがじっさいは、そうじゃないんです。 もちろん高橋信次の生命体というのは、個性を持った高橋信次以外にもありましたけれども、それはエル・ランティという巨大な生命体であってね。 その意識が、ちょこちょこ出てきているようなことはないのです。反省的瞑想というようなことを、それが出てきていうことはないんです。 まあ、そういうのは過去世の仏法者たちであってね、もちろん私の、ある意味では、弟子筋にあたるけれども、そういう人が私を通じて語っておったんです。それを勘違いしたことがありましたね。 そういうことで、ひじょうにみなさん、私にも原因がありますけれども、まちがいが多かったと思います。 ですから如来の条件はね、ひとり立って正しい法を起こしていけるぐらいの人、これが如来であり、菩薩というのはね、正しい法灯を継いでいけるような人、これが菩薩なんですよ。 だから、いま、諸宗でわかれて足の引っぱり合いだけしておるようじゃ菩薩でもないっていうことです。 これをはっきりしなければいけません。自覚してください私の言葉をね、自覚をしてみてください。 まあ、これは私にも原因があるから、あまりみなさんに、厳しいことはいえないけれどもね。そういうつもりで生きてください。 ですから過去世で自分は偉かったなんて思ってね、ふんぞり返っているような人は、もう一回ね、それを取り去ったときに自分自身が偉いかどうかをね、もういっぺん、考えてください。 GLAの教えのなかでいちばんいけないのは、過去世で、その人が偉かったから、いまも偉いといって、えばっておるのがいちばんいけないのです。 過去世、偉くなくてもよいのです。無名でもよいのです。今世でいいことを言っているのが偉いのです。 そういうことでね、過去世のことを、いろんなこと、みんな意識しすぎるけれども、過去世で偉い人か、どうかということを気にしないで、今世で偉くなるようにがんばんなさいね。 それがとくに私はGLA系統の人たちに、言わねばならんことだと思う。 過去世、自分がシャーリープトラであっただとか、モーゼの弟子のアロンであったとか、まあいってみれば親鸞(しんらん)であったとかね、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)であったとか、いろいろ言われたかたもいるでしょう。 けれども、そうしたことが事実かどうか別として、それらに関係なく、あなた自身が、現在、如来の境地に達しているか、菩薩の心を持って修行しているかどうか、これをもう一回ね、原点に立ち返って考えてみてください。 私は、これをとくにね、みなさんがたにお願いしたいと思います。 まだみなさん、亡くなるまでには、五年や十年の人生はあるでしょう。その間にじゅうぶん反省していただければね、あの世で、私が一生懸命、あなたがたを説教する手聞か、省けるから助かるんです。 どうか努力してみてください。 まあ長くなってもいけませんから、きょうは天使の再来という話をね、そういう話でしめくくりたいと思います。ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/276.html
目次 1.新文明には三つの柱がある 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 4.信仰とは、認識力の増大を意味する 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない (1987年8月15日の霊示) 1.新文明には三つの柱がある さて、第五章、「神理文明論」という章になりました。これで私の霊訓集が終わるんですねえ。 みなさんうれしいですね。とうとう来ましたよ。何冊読みたいですか。 僕はね、読者のみなさんのお力次第なんだけど、五冊ぐらいで終わりたくないですねー。できたら十冊、ちょっと声が大きくなって二十冊、小さくなって三十冊、もうちょっと小さくなって五十冊ぐらいやりたいなーって思ってるんだけど、そのぐらい読みたいって言ってくれないかなーと思ってね。 まあ、でもあるじゃない、よく世界の名作全集なんて言ってね。第一回配本、第二回配本なんて、あれだって三十冊も五十冊もあるじゃない、配本がね。二ヵ月おきぐらいに来るんでしょ。だから私の霊訓集もそうした第何回配本ぐらいのつもりでね、出るの楽しみにしてくれなきゃいけない。 でも読者のなかにはいるでしょう。「本が多くって、まあいっぱいいっぱい出しちゃって、もうこんなに読めるか。」って言うから、読めなくていいんです。私の本だけをずーっと読んでいきゃいいんですよ、みなさんね。 私は一貫教育してますから、一冊目から最後まで読めばね、みなさんの人生もピカピカに光って、そしてもうあの世で絶対いいとこ行けて、そしてあの世の勉強も終わるような、そういう教育システムっていうのを考えてますから、もう安心してね、ついてきたらいいんです。 だから、本が多すぎて読めないとか忙しい人は、私の本だけを頼りにしてね、これを持っていきゃいい。ね、毎日会社に。ま、行けると思いますよ。 私はね、むずかしいこと言わないんです。お子様やお母様や、爺ちゃん、婆ちゃまにもわかるように、話してるんですね。だから、OLなんかの間に私の本はずいぶん人気が高いんですね。 入会願書っていうのがあって、霊言集の感想を書いてるんですねえ。それで、私もときどき見せてもらってるんだけども、「もう高橋先生大好き。」ってね、OLですよ、たいていあなた。 ね、たいてい二十代だけど、二十代後半のちょっとうれ残りかかっとるOLが多いんだけども、「高橋先生、大好きです。」ってね、「ユーモラスでとってもステキなおじさん。」ってね、「私大好きだわー。」なんてね、言ってるかたいっぱいいますよ。女性です。 私は女性に人気があるんです。たぶんそのかた美人だと思いますね。「とっても好き。」って言う人ね。「高橋信次とっても好き。」って言う人は、たぶん美人でね、頭がよくて、そしてみんなから好かれてて、もうお父さん、お母さんからも評判がよくてね。 会社でも上司の受けがよくて、同僚の受けがよくてね、そして同じ女の子どうしからも、ひじょうに好かれている女の子、こういう人が私の本を読んで、感動するんだと思うんですね。 だから私の本読んで感動した人は、心がきれいなかたですから、そういう心のきれいなかたはやっぱり外面に表われるんですね。そして、えー外面も美しくなり、人からも好かれ、そしてすばらしい毎日を送っていけるようになるんですねえ。まあそういうふうに思っているんです。 さて、本章では神理文明論ですね、ずいぶん大きくかまえてみました。この意味は、神理に基づいた文明論ということになるわけですね。まあ、そういうふうに考えていただいてけっこうであろうと思います。 さて、神理文明論というのは、これからどうした文明を創っていかねばならんのか、と、そういうことでもあるわけですね。それでけっきょくは、私たちのこれからの課題ということでもあるんですね。 この本書において、私たちの今後の文明構築の課題というものをいくつか、呈示しておきたい。まあこういうふうに思うんですね。 さあ、では来たるべき新しい文明っていうのは、いったいいかなる文明でありましょうか。どのような文明が来るのでしょうか。これをね、考えてみたい。こう思うんですね。 そうしてみると、これからの文明っていうのはね、僕はね、大きく考えて三つの柱があると思うんです。三つの柱ですね。 2.新文明の第一の柱――霊性実証の時代 第一の柱はなにかって言うと、これはね、「霊性実証の時代」であります。ね、霊性の実証時代、これが第一の柱なんですね。 これは霊性って言いましてね、霊的な性質ですね。人間が霊的なる存在であるっていうことのね、実証の時代、これが来なきゃいけない。ま、こう思うんですね。 だってみなさんね、真実は真実なんですから、ね。みなさんね、これマイク握ってね、私マイク握ってしゃべっとるんですよ。ね、これ霊ですよ。霊が言ってるんです。 霊がね、私は霊だって言ってるんですね。霊が私は零(ゼロ)だって言ってるんじゃなくて、ゼロじゃなくて霊(零)だって言ってるんですよ。いいですかね。そういうことなんです。 ある人は先日言ってましたよね。「そんな霊があるって言うならあんたね、そんなら霊に色がついとりゃええじゃないか。」ってね。 「そんな無色透明で見えんからいかんのだ。」ね。「ピンク色かなんかでサーッと出てくりゃいいんじゃ。」ってね、ネグリジェみたいなん着て霊が。夜な夜なピンク色でサーッと出て来たら楽しくて楽しくて、「霊よ来い来い、また来いよ。」ってね。「こっちの水は甘いぞ。」ってね。 そして霊よ来い来いして、ピンク色のなんかネグリジェ着た霊が出てきたら、そしたらね、便利でいいよね。あー認めた、認めたって、たしかにいるねー、いるねーってね。 「あー僕はこんどはピンク色のつぎは水玉模様がいいや。」なんてね。水玉模様の霊出て来いなんてね、はい出てきました。なんてね。 夏は暑いからやっぱりなーんちゅうかなあ、えー夏は暑いからこうござっていうんかな、「ござ巻いたような霊出てこい。」なんて言ったらねえ、高橋信次がござなんか巻いて「はい出てきたぞー。」なんてね。「ござでござりー。」ってね。こういうふうに出てくるかもしれませんね。 こういうふうに霊に色があってね、かたちがあってみんなが見えたら、証明もいらんじゃないか。まあそういう人もなかにはいらっしゃるでしょう。 たしかにそりゃそうだけど、ねえ、しかしねえ、霊がそんなござかぶって出てくるぐらいならね、あんたね、なーんで霊にならにゃいかんのだ。そんなんだったらもうそのままこの地上でみな生活しとりゃええんだね。そうでしょ。 霊が霊になるっちゅうのは、こことはちがう世界で生活しとるからそれでええんだな。そんなこの地上で見えるような確認できるようなあれだったら、べつに霊にならんでええわな。 そんなんだったらもうやめちゃって、霊になるのやめちゃって、青虫がね、あなたサナギになって、チョウチョになるようになりゃええんだ。 だから人間七十年やったら、八十年でもいいよ、人間八十年やったらね、死んだように横たわってね、しばらくしとったら、体コチコチに固まってね。 しまいに繭(まゆ)みたいになって、固まっちゃって、半年ぐらい固まったままでね、あなたね、銀行の金庫のなかかね、貸し金庫のなかか、あるいは魚河岸(うおがし)のね、なんか鮪(まぐろ)の冷凍庫のなかほうり込まれてね。 半年ぐらい固まっとったら、半年ぐらいしてあったかくなってきたらなんか取り出してみたら、パカツと真二つに割れちゃってね、なかからぜんぜんちがうの出てきたりね。 こういうようにして、あなた、こんど羽が生えた人間出てきてね。こんどは、もういったん死んだらつぎは、羽が生えてなんか、空中飛べるようになると、人間こんなんでもいいんですよ。そら考える勇気はありますよ。そらおもしろいでしょうな。こういうふうにすりゃあな。 3.神が、この世に二種の人間を置かなかった理由 だけどまあ、この世に二種類の人間は置かなかったんですね。だからまあ神様のその辺は芸術センスの問題でね。 この芸術センスが「5」だか「4」だか僕はよくわがらん。ねえ、点数がよくわかんない。ただこういうふうになっとんだな。だから僕はいまもう一回人間創りなおすとしたら、そんなんでもいいと思うんだね。 だから六十、七十になったらどんな美人でもきたなくなるんだろう。いやだろう。だからコチコチになって死んじゃって、鮪(まぐろ)の削りぶしみたいになっちゃって、あら鰹(かつお)か、鰹の削りぶしみたいになっちゃって固まっちゃってね。 それで半年ぐらい冬眠して、そしてサナギになって、サナギから出てきたら、こんど、ね、羽が生えちゃって、なにか生えちゃって、ブンブン、空飛べるようにね、そうしたらすばらしいよね。 ある者はだからそうしたサナギになる前に、えーよく悟った人がね、こんどはサナギから出てきたときに羽が生えて空が飛べる。 しかし悟らんかった霊はどうなるかっちゅうたら、こんど出てきたら手足がなくなって魚になっとると。そして悟らんかった霊はサナギから出てきたら、海のなかドボンとはいって海のなかで泳いどると。 でお魚さんになっちゃう、ね。で、悟った霊はエンゼルみたいに空飛べる、ね。こういうのでもあってもおもしろいかもわかんないねー。どうだろうか、ね。 こういう二種類にしたらもう天国、地獄言わなくたってね。サナギになったあとお魚さんになっちゃうのと、ね、人魚だな、顔はいいわ人間でも、下半身が人魚で、人魚姫みたいに海のなか泳がないかんのと、羽が生えて、空が飛べるのと、こう二種類創ってもいいんだよな。そうしたらおもしろいね。 そしてこんど人魚とエンゼルがまた適当な年齢になったら、もうエンゼルやめちゃってもう羽が歳とってとれちゃって落ちちゃって、ね。 人魚もなんか産卵しちゃって、卵産んだら人魚も消えちゃってね、卵になる。卵がまた人間になるとかね。こういうふうな循環考えてもよかったのかもしれないね。 ただね、神さん考えられたのは、そんな目に見えるかたちでね、信賞必罰がはっきり見えるのはね、あまりおもしろくないと思うんだなあ。 ね、パン食い競争といっしょでさ。あそこ行ったらパンがぶら下がっている。あそこ行ったら牛乳飲まにゃいかん、あそこで顔洗わにゃいかんなんてね、目に見えるのおもしろくないじゃない。 そうじゃなくて探検でね、これ森のなかでいったいなにが出るかわかんない。大蛇が出るか、乙姫さんが出るかなにかわかんない。とにかく手探りで森のなか進んでいく。これがおもしろいんだな。これがスリルと探検がね。 ところがパン食い競争みたいにあなた、見渡しゃもう百メートル先までなにがぶら下がってるかみな見える。 ね、あとなんか黄な粉のなかに飴かなんかはいっちゃってプープープープー吹いて顔真白になって、食べなきゃいけないとかね。こんなんみな見えちゃうね。おもしろくないわね、たいしたことねえや、ね。 だから、それで人間諭(さと)すのがだいじだよねえ。 おめえ鳥になりたいっちゅうんか。空飛びたいならねえ、もっと修行しなさい、なんてね。お魚になりたきゃそんでいいよ、なんてね。そんなのもう子供みたいでバカバカしいじゃない。わからんからいいってね。 だから霊っていうものを色ついてピンク色で飛ばさないようにしておる理由は、やっぱり人間のこの精神的なね、えーなんと言いますかね、価値を高めるためにそういうふうにしとるんですねえ。 4.信仰とは、認識力の増大を意味する やっぱりね、けっきょくなんて言いますか、信じるってことは宗教にはつきものですけれども、信じるっていうことがつきものの背景にはね、そこに大いなる精神的な飛躍ってのがあるんだね。精神の飛躍。飛翔感ていうのがあるんですね。これがあるわけです。 あなたね、自分が確認したものだけを信じるっていうのはね、これはりっぱなように思うよ、一見ね。科学的実証精神のように思うよ。もう自分が確認したものだけを信じる。 じゃあアメリカ行ってない人はアメリカのあるのを信じないの筋なんじゃないですか、ねえ。月行ったことのない人は月がないことを思うのは筋なんじゃないですか。どうでしょうか、ね。僕はそう思うんですよ。 そんなら霊だけをそんなこと言わずに、じゃあほかのことだっていっしょじゃないですかってね。軽井沢行ったことない人は、軽井沢なんてあんなの神話じゃないかって言っとりゃいいんだよ。そうだろう、ね。 自分が経験したときが、ことだけがすべてで、真実で、経験してないことは真実でないって言うならそういうこったな、ね。じゃあその結果どうなるんだ人間は。 自分が確認できて、経験できたものだけが真実で、そうでないものはそうじゃないって言ってどうなるんだ。人間はね、けっきょく手さぐりといっしょだろ。ちがうか。 手さぐりで生きとる人間てけっきょくなんだ。そしたらあなたね、アリと変わらんぜ。アリと。 あなたがた地上はっとるアリ見てごらん。ねえ、かわいそうだよねえ。もう右曲がり左曲がり、もうあっちまわりこっちまわり見てたら一時間、見てたら一時間グルグルグルグル一メートルぐらいのところまわっとんだろ。ちがうか。地面のね。あっちあたり、こっちあたりグルグルグルグルまわっとる。触角動かしてね。触角でさわってるんだよ、一生懸命。 ね、ああいうアリさんみたいな人生になっちゃうんだな。かわいそうだろ。ね、もう一段高い認識力がないんだな。自分の置かれとる立場、あるいはこの世界というものにたいする認識っていうものができない。アリさんはね。こういうことだ。 だから経験論、実証精神だいじだけど、それがようするに自分を小さくして、そして認識力を低めておるなら意味がないな。だから信ずるっていうこと、信仰っていうことの意味は、認識力の増大を意味するんですね。 つまり、目や口や鼻や手ざわりで感ずるもの以外を感じとるってことでしょ、信ずるっていうことは。ちがうか。全身全霊で感じるっていうんでしょ、ね。それは認識力が高まったことだ。認識力が。 認識力が高まるっていうのはどういうことかって言うと、わかる範囲が広がるってことだな。物事がわかる範囲が広がる。 物事がわかる範囲が広がるってことはどういうことかって言うと、アリさんよりは人間さんでしょ。アリさんよりはバッタさんかもしれない。バッタさんよりはお亀さん。お亀さんよりはウサギさんやらなにや知りませんがね。 あるいは、犬、犬よりは人間、そうかもしれないね。人間よりはじゃあ神様だな。認識力が高まるってことは神様にそれだけ近づいていくってことだ。ちがうだろうか、ね。そういうことでしょ。 5.これから、霊界の研究者が尊敬されるようになる時代が来る だから、自分が確認したことだけしか信じないって言うんなら、人類は何世代にも、何十世代、何千世代にもわたって生まれ変わってきたけど、それぞれの人間が、自分が確認したものしか信じられないって言うんなら、文明や文化の進歩はなにもないことになる。そうだろう。 もう一回ゼロから始めて、ね。一足す一がほんとに二かどうか、もう一回確認しなきゃいけない。ちがうだろうか、ね。そういうことだね。 だからあるていど前提とする部分があって、文化や文明は進んどるんですな。そのなかにはたんなる信仰とはちがうけれども、信ずるという行為がやはりあるし、それを受け入れるという行為はあるんだな。僕はそう思う。 だからこれからの時代はね、まず第一に霊性の時代であって、そうした目に見えぬ霊の世界が厳にあるということに対する実証、ほんとうにそっちの意味の実証精神ね。これはいってきますよ。 で、科学者なんていろいろ言ってるけど、この霊界のね、研究者なんていうのはものすごく尊敬されるようになる時代が来ますよ。第一人者なんてね。 いまだったら医学界の第一人者、ねえ物理学の第一人者なんて尊敬されてるけど、それが霊界の第一人者なんて言ったら「なーに言ってんの、気持ち悪い。バカにして。」ってね。バカにされちゃいますね。 ところがこれから霊界研究の第一人者って言ったら「ほーすごいなー。」ってね。こういうふうになってくるでしょう。まあこれが霊性の時代ってことの第一点ですね。だから文明、新しい文明のね、第一。 6.新文明の第二の柱①――原始に還れという復興運動がおこる時代 第二はね、これからの時代の特徴の第二点は、第二の時代はいったいなにかと言いますとね、えーまあこれからもう一度ね、文明の再考、というのが始まっていきますね、再考。 文明、現代ある科学文明っていうのが、これがいいものかどうかっていうことが、もう一度考えなおされる時代ね。こうした時代にこれからはいっていくんですね。 それはなにかって言うとね、二つに分かれるんですね。 これはなんか『孔子の霊言』かなんかにもあったそうですけども、ますます科学文明を発達させていこうとする方向と、原始に還れ、昔に還れという復興運動、この二つの潮流が巻き起こってきますね。どっちも神理は神理なんですね。 なんで都会でネクタイぶら下げてね、ギュウギュウ電車にゆられて、会社冷暖房きいとるかどうか知らんが、会社のなかでね、一日中働かなきゃいかんのかと。こんなの人間の本来の性質に向いていない。こういうふうに主張する人が出てきて、それに賛同する人も出るでしょう。 そういう人たちが武者小路実篤じゃありませんが、新しき村運動じゃないけどね。そうした原始に還れと、自然に還る、自然の美しさに還ると、いうふうな運動をね、展開、積極的展開をする時代がこれから始まってきますよ。 おおいにそういうことを唱道する人が出てきます。それはそれでひとつの動きだと思う。 やはりね、都会が人間を進歩、発展させるところもあるが、堕落させてる面もひじょうに多い。そんな堕落させるような素材をそのままにしておかないで、そうしたものがない、もう一度新たに造りなおす時代ね、造りなおすという時代、これをやはり考える。そういう時期が来るんですね。 リンカーンじゃございませんが丸太小屋をね、自分で作る。ね、みんなね、小さいころは喜び感じたんだよ。自分でいろんなもの作ったことをね。 ボーイスカウトだか、村の少年だか知らんがね、自分で小屋を作ってみたりね。自分で穴を掘ってね、それで上に茅(かや)かなんか葺(ふ)いちゃってね。そして探検ごっこやってみたりね。 そうしたことにずいぶん生き甲斐感じてたわけだよ。いつかしらそんなの生き甲斐忘れちゃった。ね、自分で新たにいろんなもの作っていくっていうこと。ね、農作物だってそう、動物を飼うことだってそうね。 畑正憲さんて言うんか、ムツゴロウの動物王国とか言って、北海道やらどっか、なんとか村やら知らんけど、どっかでやっとんだろう、ムツゴロウ共和国とかね。ああいうのがね、まあひとつのなんて言うんかひとつのあれになりますよ。 あのムツゴロウさん、あれ諸天善神のひとりだよ、ね。ああいうのは稲荷大明神って言ってね、動物を指導しておる霊人がおるんだな。そういう人のなかのひとりですよ。 まあ、ああいう人がやるわけだな。ああいう時代になるわけです。僕はこれでもいいと思うんだよね。 文明でかならずしも進歩する人ばかりじゃないんだな。毒されることが多い人も多いと思うんだ、ね。 だってあなたね、都会行きゃあもうほんと悪の臭いがしちゃって、新宿歌舞伎町とかね、あなた銀座のどこそことかね、渋谷のどこそこ、上野の某所、あるいは千葉のナントカ町、ね、川崎のナントカ町。 こんなところってのはあなたね、まあそりゃ聖人君子だってあんまりそんなとこ住んでたらね、だんだんだんだんやっぱりフラフラフラフラし始めますね。ないほうがいいわけですね。 そういう意味では、そういうものはないってこともいいんですね。軽井沢には風俗営業がない。そういう町もだいじなわけなんですね。ないとどうしようもないですからねえ。あるとやっぱりフラフラ行きますわね。ないこともけっこうなんですね。 だから自然のなかでね、そんな風俗営業ないようなところで、生活することもだいじですよ。そうじゃないでしょうかね。それが人間向上させることにもなる、ね。 7.新文明の第二の桂②――未来産業型の文明時代 で、これがひとつの流れだし、もうひとつの流れとしては、いわゆるもっと科学技術の進歩ですね。まだまだこんなんじゃあ物足りない。どんどん作り出してみよう。いろんなものを作り出してみる。 それから、やっぱり好奇心旺盛な人はどんどん月へ行き、金星へ行き、ねえ、ほかに太陽系からも出て探検してみたい。宇宙人とも握手してみたい。こんな人もおるでしょう、ね。 『太陽の法』っていう本読むと、なんだか金星人がおったらしい、ね。エル・ミオーレっていう神霊が治めとったらしい、統治者がおったらしい。 「ちょっと金星ツアー行こう。」ってね。「金星人の化石を見つける会」なんてね、できちゃって、金星ツアーして、どこかに埋まっとらんかと一生懸命シャベルで掘ったりしてね。そんな人も出るかもしれない。 そうした新しい経験でもって、それで進歩する人もいるでしょうから、まあそれはそれでけっこうでしょう。 後者について、宇宙時代についてもうちょっと言えばね、宇宙人との交流っていうのが、これがますます積極的になってきますよ。彼らもまた新たな世界観求めて来とるんですね。 いま、地球自体、だいたい法が出尽くしたと思うかもしれないが、宇宙人と接触するとこんどまたちがった法がね、感じられますよ。地球の法だけがすべてじゃないんですよ。 私は前のほうの章でも言いましたけどね。そんなお札(さつ)交換してなんかしとるの見たら不思議に感じるって言ったけども、そういうほかの惑星の考え学んだら、また人間気がつかない教えってのも増えてね、そして新たな考えかたっていうのを学ぶかもしれないね。まあそういうふうに思いますよ。 だからそういう宇宙時代も来るし、UFOも現在十何種類来てますから、地球にね。やがてだんだん確認されていくでありましょう。 彼らが来とる理由は、新しい文明のなかに参入したいという気持ちもあるし、あるいは地球を偵察に来とるとこもあるし、もと私たちが来た母星からもちょっとは来とるんですがね、確認しにね。いろいろやっとるんですが、理由はいろいろあるんですけどね。 ま、これはまた『高橋信次の空飛ぶ円盤』(「高橋信次のUFOと宇宙」として刊行)でもなにかまた一回組まにゃいかんかもしれませんね。ちょっとこの本章のなかで言うのはむずかしい。まあそういうことがありますね。 ですから第一の柱として、霊性の時代が来るって言ったけども、第二番目の柱で時代が二極分解して、原始に還れ、それと未来産業型の文明時代へと行くと。こういう二極分解するでしょう。で、それぞれ神理はそのなかにあると。こういう話しましたね。 8.新文明の第三の柱――精神的な帰属が社会的ステータスをつくる時代 じゃあ、第三番目の時代はいったいなにでありましょうか、ね。これはね、まあ先ほどの霊性の時代ということにひじょうに関係するわけなんですね。 つまりひじょうにそれと似かよっておって、空海さんなんかも『空海の霊言』のなかで言っておられたように思いますが、これからはね、精神的な帰属というものが、社会的ステータスをつくる、そういう時代が来ます。 精神的な帰属。つまり宗教なら宗教、なにを信じておるか、あるいは道徳ならどうした道徳を信じておるか。どうした教えというものを実践しておるかね。 こうしたことが社会的ステータスシンボルになる時代がやってきます。これは不思議ですがね。 いまだいたいみな名刺だして、「なんとか会社の専務です。」ね。「部長です。」「なんと平社員です。」って、やっとるわけですね。 そうじゃなくて、空海さんが言っておられるように、まあ、いっしょですが、自分はえー「講師をしておる。」とか、ね。「自分はGLAの後始末をした人間だ。」とか、ね。 「自分は高橋信次亡きあと別派作って、世の中混乱に陥れた人間だ。」と、ま、これは論外でございますが、こういうのは別にすれば、精神的な帰属っていうのが、その人のやはり値打ちを表わすようになる時代がやって来ますよ。 だからいまは宗教やっても「なんだかバカみたいな。」って言うけれども、これからどういう団体に帰属しておるかっていうことはね、その人の値打ちね、魂の値打ちを決める時代が来る。 ま、いま入会試験むずかしいのやってますが、これなんかその走りなんですね、時代の、ね。 ゴルフの会員権だけが高いなんてそんなのとんでもありませんよ、ねえ。どこそこゴルフ会でやれるとかね。こんなんだけがあなたね、値打ちじゃありませんよ。 これから神理の団体っていうのはね、ほんとうに魂を磨く団体になっていきますから、どの団体に属しておるかね、これがね、社会的ステータスになってきますよ。 こういう時代、価値逆転の時代がね、始まりますよ。ね、これだいじですし、僕たちそれをねらってるんですね。 9.これからは、神理を勉強していることが資格になる時代が来る えー神理価値ってことはずいぶん言いましたけども、前章でも言いましたけども、これからそういう価値逆転の時代でね。 いままでは宗教にはいってるちゅうのは隠さなきゃいけなかったけども、これからは、はいってるっていうことが値打ちになってきて自慢になってくる、ね。自分のステータスになる。 で、むしろ会社に勤めてるっていうことなんかそんなのどうでもいいことでね、どこの会社に勤めてようが、なにやろうが、そんなの漁師やってようが、あんた木こりやっとろうが、会社の重役やっとろうが関係ない。 それはね、生業(なりわい)を立てるためにやっとるんだ。そうじゃなくて土、日あるいは普段の夜、いったいなにやっとるかね、これがだいじになってくる。これを競うようになる、ね。ま、そういう時代にならにゃうそです。ほんとうに魂磨くということがだいじになる時代ね。 だからいまねえ、こそこそといろんな神理の伝道手伝ってる人おると思うけど、これからそれを堂々と言う時代になってくるよ。これから堂々と、ね。資格の時代になるよ。神理も。 資格の時代が始まる。新たな、ね。えー魂を磨いているってことにたいする資格の、大いなる資格の時代が来る。こういうふうに思いますね。 それでないとおかしいよねー。文部省認定、英語検定だけあるでしょう。一級だとかあなた二級だとか三級だとかね。 最近は一級と二級の間に差があるから準一級なんて作ったらしいよ、文部省ね。こんなことばっかりやってね、もうええ大人があんた英語の試験ばかり勉強してるんだ。もったいないよー。 英語なんかあなたアメリカにこんど生まれりゃええんだよ、ね。転生してアメリカに生まれりゃ英語しゃべれるじゃないねえ。 日本に生まれりゃ日本語勉強できるんだよ。そんなのわかっとるんだからもう、ほどほどにすりゃええんだ、そんなことね。 そんなんじゃなくてね、これからどれだけね、神理の勉強してるかね、これがほんとうは役に立つかもしれないよ。 だからこれから神理が資格の時代にはいってくるぞ。ね、楽しいじゃないか。そんなんがあって、みんながね、日本国民がね、われを競って神理を勉強し始めるって。これはいいことですよー、ねえ。 文部省の教育はいいとしても、そんな英語だとか、あなた無線通信士の技能だとか、針灸だとかなんだかんだとまああるかもしらんけど、まあそれもけっこうだけども、いろんな国家資格あるわなあ。まああるけどたいしたことはないわなあ。死んであの世へ持って還るほどのものはほとんどないんだ、資格はな。 だからこれから神理を勉強してるってことが資格になる時代になると思います。そして神理の団体もね、いわゆるほんとうに信ずるか信じないか、まあそういうふうなオカルト的なあれじゃなくてね。ひじょうに教育的な側面というものを多く持ってくる、そういう時代がやってくると思うんですねえ。 だからこういうこと言ってた人いたけどねえ、通信教育の時代なんて言ってたけども、そうなるかもしれませんね。 これから法というのがあるていど定型化され、類型化されてね、ほんとう通信教育でもできるような、そういう時代ほんとうに来ると思いますよ、もうすぐ、これそう遠くないですよ。 10.今後、「高橋信次コース終了認定」免許が出る時代が来るかもしれない だからいろんな教えがあるけれども、もう教えが多すぎるからもういくつかね、分けて、とにかく高橋信次コースってあって、高橋信次コースってのは、幸福の科学出版から出てる高橋信次霊訓集、たとえば全二十巻がテキストである。 で、これで単位があってね。前期は第一巻から第五巻、ね。後期は第六巻から第十巻。そしてこの基礎コースをマスターしたらつぎに応用コースヘはいっていく。で、第十一巻から第十五巻、ね。それから卒業コース、第十六巻から第二十巻、こういうふうにこう範囲が決まってね。 そして、三年計画ぐらいで、社会人の生涯学習で、「高橋信次コース終了認定」こういうのが出ます。 「あーよかったー。」ね。「終了認定出た。じゃどうしようかな。まあじゃあこれ卒業したから、じゃあちょっと谷口雅春コース行ってみるかー。」って言ったら、つぎまた三年ぐらい「光明思想研修」なんてね。 谷口雅春コース三年ぐらいやって、「また免許いっちょ取ったー。」ってね。こういうので何枚も取ってね。勉強の手段がそこでできてくる。こういう時代になってくるかもしれませんね。いいことですよ。どんどんマスターしてくる。 これだけ天上界の先生がいっぱいおるんだから。あの世還ったってもう消化不良でできないですよ、だんだん。この世のうちに早目にマスターしておきましょうね。 そしてあの世に還ったらね、ちょっと見せてね、資格、「もうこれとこれと終了してますから。」って「おっそうか。じゃあつぎはもう残ってんのはまあ岩登りとあなた木登りの仙人の修行しかねえから、ちょっと仙人界行ってこい。」なんて言われてね、カクッときたりするかもしれませんが、まあそういうことはあるかもしれませんが、まあね、あの世でもどうせ勉強するんだから、この世でできる機会にね、バッチリ勉強してね、どんどん優等生になっていただきたい。 まあそういう話で神理文明論と称しましてね、えー三つの柱立てて話をしました。霊的なことが実証される時代。そういう時代が来るということ。 それから文明の類型として、えー自然に還れ型と、未来産業型と、二つに分かれてくるであろうっていうこと。 それから三番目に、えーこれから霊的なものがね、勉強が資格の時代になってくるよ。それからステータスシンボルになってくる時代が来るよ、ね。まあこういうことを話しました。 まあこういう未来を先取りしてね、みなさんもね、日々努力精進してください。そしたら賢い人間と言われるようになるんですね。じゃあまた、お会いしましょう。